2010年12月31日金曜日

心を動かすものを見つめる

それぞれの琴線があると思う。

私だと例えば抽象具象有機無機生きてるうえで経験する様々な事柄から

ふっとそのものの本質を見出したときが一番心を動かされる。

美醜正否関係なく。

そしてそれをなるべく写実的に描きたいので、なんだか赤裸々になってしまうのである。

もはや1月号が届きましたよ。

お風呂掃除を終えてゆるゆるな時間、ゆるゆるに感想を。



ポッサラッセさん(この脱力しそうな筆名のセンスは私の中で「パンとあこがれ」さんと双璧です)の巻頭。


これはさえちゃんが賢明ではないでしょうか。

ある意味子供が子供らしくいるのが難しい時代でもあるのだけど

荒波から守ろうとするから出口がなくなっていく気がする。

荒波をどう乗り切るか、その子にとってより良い方法論を一緒に探せばまた違うのではないか。


水辺灯子さんの特集。


寿ぎの光景に奥行きを感じさせてくれているのは、昭和六年生まれのお父様の歌2首。

これがあってこそこの特集の深み、輝きは成り立っていると思う。


しかし素敵な秋の歌が多かった。

秋なあ・・・きっとその季節が来る頃にはそういう葛藤も忘れているのだろうけどもw

No title

普段使いのPCが起動しなくなったのでただいま知人の所へ宅配で修理に送った。

投稿歌や歌集やらなんやらのデータが入っているのだけどどうなることやら(ハードが無事でありますように)。


さて、こちらのブログで歌会での欠席歌の取り扱いについて書かれていた。

小さい歌会ではすべてを代表さんがこなさなくてはならない部分もあり、それでも事務方のご苦労は察して余りある。

好きでやっている事とはいえ次第に気持ちも身体も疲弊してくる気持ちはつくづくわかる。

様々な歌会での対応もあるけども参考になるかどうかだけど札幌ではこんな感じでやっている。


代表=本部からなどの連絡、郵便物窓口。歌会場所の予約。忘年会の場所決め(笑)
会計=主に会費の管理。本部会費の支払。
プリント作成=歌会でのプリント採点票制作。ちなみに北海道として年1の持ち回りで全道歌会分の
月々の歌会作品をプリントしている。(現在は旭川)その為のプリント送付。



会計やプリント作成係が休んだ場合、周囲のどなたかにフォローしていただく。

司会に関しては持ち回り。場所が大きめのカフェなので飲み物代はなどは会費から賄う。

北海道だと交通の便や距離的にも欠席歌、という状況になりやすいが欠席歌においては

提出時に送付してもらうかどうかの確認が出来れば送る。(郵送代節約のため)

歌会が発足して10数年経つがその間2人の歌友が逝去している。

他のようにうちの歌会でも年配の方は多い。一様にお元気でおられるけどもそれに甘える訳にもいかない。

今現在パソコンを使えてプリント作成してくれる方はいるが、もしもの時そのフォローが出来る人がどれだけいるか。

会計にしかり代表にしかりである。

無理にどうこうというのではなく、寧ろこういうのは常に歌会に参加している一人一人が

「もしも」を前提にちょっと考えてくだされば非常に助かるのだという話だと思うのである。

2010年12月28日火曜日

花鳥風月のずれ

久々にあれこれと書く余裕が出てきた。

歌を纏めている時は脳の神経一本一本が張り詰めた感じになっている。

眠いのに「寝るな!」と脳に起こされているような(危険なのか?)。

ものすごい真剣勝負な訳ではないのに不思議なのだけども。





叙景歌の数々も纏めていたのだけども、書いている季節にえらく偏りがあることに気づいた。

現在住んでいる北海道という土地柄のせいかとにかく冬の歌が多い。

寒さで意識がクリアーになるのか言葉も生まれやすいみたいだ。

そして意外にも次に多いのが春の歌。

しかも冬から春へと変わりゆく瞬間を描いたものが案外多い。

キリキリとした冷たい空気が、ふっとゆるむ。そのやわらかな感動は

北国ならではか毎年ほっとする時である。

俳句などで季語に親しい方ならわかっていただけるだろうがこちらの四季のサイクルは本州とは違う。

��月にはどう頑張っても梅は咲かないし、桜にいたっては5月初頭。(でも連翹は律儀に暦どおり咲いたりする。)

本来それぞれ違う月に咲く紫陽花、向日葵、コスモスも夏になったら一斉に咲くのである。

風土の違いゆえの面白さもあるから然程こだわらず書いてはいるけれども、もっとその部分を

描ければいいなとも思う。

次回の3作目は多分叙景歌を中心になるだろうけど、ネタばれっぽいけど

秋の歌が一個もありません(笑)

何でだろう、書いてはいるんだけども載せるには及ばないというか・・・秋ならではの情景の美しさはもちろん

理解してはいるし、着物も着るくらいだから和な美意識もまったくないはずではないんだけども。

どうしても無難にステレオタイプな秋のイメージに終始してしまう。紅葉の美しさとか。

それにこっちは夏終わったなあと思ったら冬来るの早いしw

特別な感慨が個人的にないのかもしれない。好きな季節なんだけどねえ。

2010年12月27日月曜日

No title

勢いづいて第2作目の歌集ができました。
http://p.booklog.jp/book/17294

たぶんこのまま漢字1文字シリーズで行く気がする・・・。

あとは叙景歌シリーズと感覚派っぽいの(そんな高尚でもないか・・・官能でもないんだよなあ)を

来年あたりにでもアップすれば4部作完成になるのか。

2010年12月25日土曜日

Present for you :))



歌集の整理にかかりっきりなせいか神経がぴりっと張り詰めて寝れません・・・w

今夜は大丈夫かしら?

Good Night all :)

2010年12月24日金曜日

未分類な想い

��部作くらいにしようと考えてはいたけど、思っていたより書いている歌が多かった。

大体の数字で換算すると、1998年~現在までの掲載できるかな?という感じの歌の数が

��00近くになるはず。

もともと組み立てて作る方ではないし、ムラも激しい。

これを3部に分けるとなれば100弱になるので更に削る。


大体「景」「暮」「胞」といった題か。


改めて自分の来し方というか、ルーツ的なものを再確認できたというか

これを踏まえてどう歌と向き合っていくかも考える事が出来た。

本当の初期の初期の拙さは恥ずかしいを通り越して不思議に微笑ましく感じた。

吐き出すに終始した年、想いと重なる言葉が出なくて悶々とした年

掲載する際選ばなかった、曖昧ではないけどあやふやな、それこそ未分類な歌が

ある意味その年の自身をすごく象徴している気がする。

そう簡単に一本筋が通るなら苦労はしないよ、と言わんばかりの息抜き感満載の。

へヴィーな歌と歌との間に入れる緩和剤は必要で。



・・・・4部で足りるのか、足らさせるぞ自分。

一足早く

この季節だったら「メリクリ」だけどこれが一番好きかな。



誰かの思い描いている夢の中に

自分もいるという幸せ。

自分の突き進む道程の傍らに

あなたがいるという幸せ。



善き聖夜を。

2010年12月21日火曜日

No title

電子書籍歌集~渇~
http://p.booklog.jp/book/16678

��7日に公開にして、663とかなりの閲覧数でびっくりしてます。

何だろうか?と思って読んでみて驚いた方もおられそうだが・・・

驚きとともに「五行歌とはなんなんだ?」という取っ掛かりになればいいのではないかとも

思っています。

人の数だけ歌があり想いがあり呼吸があり物語がある、そんな多様性が五行歌の売りのひとつです。



さて、次回は来年とか言ってましたが・・・事情が変わりました。

年末大掃除をもちろんわたしもやるのですが、その際積み上げっぱなしの歌誌も整理してしまわないと

と、思ったところ、はたと気づきました。



整理してからまた次回作の打ち込みのために引っ張り出すのか?


整理の意味が年明けからなくなってしまう可能性大・・・。


ということで


主要な歌を初期の歌誌から引っ張り出して打ち込みの日々がしばらく続きそうです・・・。

前もって打っておけば、大好き単純作業のコピペの嵐ですむのですよ。

字はね、もう少し小さくします・・・(汗)

元々デザイン系の小作業を仕事でずっとしてたので嫌いじゃないんですよね、加工とかも・・。

いい感じで泥沼です。

2010年12月20日月曜日

昨日、今日

新しい何かが開けたのと、元の居場所に戻ったのと

知らずに大きな感触が身に迫ってきたのと、

そしてささやかな想いが消えた。


そんなゆるやかに混ざり合った日であった。


歌会前に朝昼兼用のごはんをタリーズですませてぼんやりしてたところ

向かい側の可愛いカップル、さりげない距離を空けた真ん中に食べ物を置いて

仲睦まじく食べている。互いのを味見したり、食べ終わったごみを片付け合ったり。


ベンチでサンドイッチを啄むような恋。


することもなかったなあ。



連れ立って二人は雪降る街へと足早に去って行った。



あてのない手紙を書くのはもうやめた私だけど

この二人の軌跡に幸せを祈った。

そんな日だった。

代表というもの

今まで頑張ってくれていたSさんがしばらくお休みするというので

久々に歌会代表になった。

代表といっても事務局から来る郵便物や歌会についての問い合わせのの窓口としてが主だけど。

文芸結社それぞれの在り方もあるだろうし、私自身「長」と名のつくものになったこともないので

統率とかまとめとか、そういったことに無関心でありたぶん素養もないのだけど

自分なりになんとなく思っていた、歌会代表、というものについてちょっと記してみる。

そして歌会写真をまったく送ったことがない、ある意味謎のベールに包まれた?札幌歌会についての事も

せっかくだから書いていく。今回も写真撮り忘れたフォローのつもり。



��997年の発足だから結構長い。

そして「ヒマそうだから」という理由で代表に。当時は出来たばかりだったから、分業制にするほどそこまで打ち解けている部分もなく

現役で働いて多忙だったり、遠方から通ってきたり、家庭があって忙しかったりという人がほとんどだったので

それに比べればヒマ(でもなかったはずなんだが)な私が経理やプリント作成、司会など10年近くやっていた。

小さい歌会などでは、きっと代表1人が奮闘しておられるとこも多いと思う。

当時2~30代の私でさえ結構疲れていたのに、年配の方が多い他の代表さんだったらかなり堪えるのではないだろうか。


来年からは代表、経理、プリント作成と完全に分業制になる予定。朗読、司会は持ち回り。

歌作は個人的なものだけれども、人をまとめておくのとはまた別の話で

代表1人がひっぱるのではなく、他の方の協力があって歌会は成り立つものなのだという一人一人の意識って

維持させていくならば、やはり大事だと思う。

もちろん体調やどうしてもという事情があればそちらを優先させるべきだ。

出来る範囲で気を配る、というのが一番無理がない。無理があると綻びは出てくるから。



で、代表であるけども。

私の中での位置づけは「花見の場所取り」だ。それ以上でも以下でもない。

突き詰めるところ、やれることってそんなにない。

なんせ未だに歌会の中で一番若いので、熟成されている方々に対して

歌=人生について語れるものでもない。



皆が集まる前に茣蓙orブルーシートを敷いて待つ。

そのうち酒や肴持参で集まってくる。

なんとなく花見が始まる。

桜について詳しく語る人がいて

「へえ~」と感心して皆聞く。

「そういえばうちの桜もねえ・・・」と話し始める人がいる。

「ああーうちも」と言いだす人もいる。

不意に歌いだす人もいる。

不意に無言を楽しむ一瞬もある。

そして三々五々皆帰りだす。「いい花見だったねえ」と言いながら。

さてさてと茣蓙orブルーシートをくるくる丸める代表。

来月の花見を思いながら、後ろからてくてくと皆の後をついていく。

「○○さんの桜は幹が太い、□□さんの桜は色が濃い・・・」

それぞれの桜事情を思いながら、これから季節を経てどんな風に変わっていくのかなあと

思いをめぐらす代表の花見が脳内でまだ続いている。




桜を歌、花見を歌会に置き換えるとわかりやすいかも。




この歌会に出す2首だけが毎月書く歌という人が殆どだ。

歌会とはいえ皆が前傾姿勢な訳ではない、その人にとって日常をほんの少し彩るもの。

ささやかな息抜きとしての場所。それぞれにとっての歌会の在り方楽しみ方が

「歌」そのものの在り方だと思う。

花見の場所取りとはそういうことなのである。

代表というのはその場所を確保する人であればいいのではないだろうか。

いい歌を書き続けることとは別に。

��「まあ、いい歌さえ書き続けて行けばいいよ」と代表になった当初戸水氏に励まされた?ため

私の中でこれが唯一の代表の意義になっている。いい歌・・・・かあ。)

2010年12月18日土曜日

No title

歌集らしきものを作りました。

左のブログパーツから覗きにどうぞ。


体裁もデザインもかなり簡素(テキトーとも言う)になってしまった。

これくらい気負いがない方が気持ち的に楽かも。

選歌でひーこら言うくらいだったので。

��部作くらいやれば歌集1冊分にはなるやもしれません。


ふー、疲れた。楽しいけど。

次は来年だなあ。

明日は今年最後の

五行歌会でございます。

今年はいろいろあったようでなかったような・・・・。

先立つものはないくせに煩悩は人並みにあるのだったりする。

年末は久々に行きつけの(変な表現か)神社へお参り行こうかしら。

身近な人、遠方の友たちの息災を祈るくらいだけど。


叶えたいことは多々あれど、もう諦めが肝心だよなあとも。




なんも、それでも進んでいくしか拓けないのさ。

2010年12月15日水曜日

No title

電子書籍作成サービス「パブー」
http://p.booklog.jp/

こちらの無料作成を使ってささやかな五行歌集を計画中。

多分この先実際出版する可能性はないに等しいので(宝くじでも当たれば別だけども)

こういう形でも残せたらいいのではないかなと思った次第。

縦書きに対応していないので、やや手間がかかる分載せる歌もそんなに多くない。

でもそれでよかったかも。なぜならば・・・


過去とはいえディープな想いの染み込んだ歌共と
��結晶なんてそんな素敵な表現は言わない。)
改めて向き合いつつ(個人的には2007年がしみじみ濃ゆい)
選んでは捨て、切ってはまた戻し、載せるのが限られる分
密度のある歌ばかり残ってしまったものだから胸焼けも甚だしい始末。


「恥」という意味をしみじみ理解できるようになるのが、大人になった証拠と

何かに書いていたなあ。

昔の歌見て「くはあーっ」と思えたってことはまだ伸びしろがあるという解釈でいいんだろうか?

いいんだよな、うんうん。

2010年12月14日火曜日

問わずに包む

その人を好きかということと、その人に何もかも委ねられるかということ。

その落差や隔てがない人は幸いだと思う。

もっと何でも言ってくれればいいのに、と言われるのが辛いときがある。

聞き流して欲しいのと受け止めて欲しいのと微妙なせめぎ合い。

大事な人に対するほどその葛藤は激しくて。


これから出会うであろう、君よ。

手が掛かるだろうが時間をください。

ひとつひとつ差し出す時間を。

2010年12月12日日曜日

自戒的なあれこれ

感受性は老いる。

お肌も精神も早いうちからの危機感が大事だとつくづく思う。


五行歌は様々な世代の方に書かれてはいるが、高齢の方、熟年主婦層がやはり多い。

��0~70代から始められる方もいて、しかもそれがとても瑞々しい歌を書かれていたりもする。

長年使っていなかった部分の感受性と自発性をのびのびと発揮されている。


何年創作活動を続けていたとか書いていたとかの自身への拘り

乾上った感受性の隠れ蓑にしてないだろうか。今でこそこうやって自戒できるけど

これが50~60代になったときを考えると自信がちょっとないので、あえてここに記するのだ。

「詩のボクシング」というアグレッシブな詩の朗読イベントがあるが~~~公式HPはこちら

己と対峙の部分はさぞかしシャドーボクシングの部類になるだろうか。

実際ああいう形での試合形式のあり方云々は別として、精神を老いさせる事がない表現スタイルだと思う。



二次元だけではない発する空間。

肉体を持つ呼吸。



あれは優劣以前に「どれだけあんた自身と向き合い格闘できるんだい」と自分の全存在を問われるのだね。

見えない部分の基礎体力や筋肉、タフでなければ己にも試合にも勝てない格闘なのである。



某計画、あと2首で30行くです。まずは30でも・・・いいですかw(誰に聞いてるの)

2010年12月7日火曜日

Letter

嘘をつけないからこそ、歌える幻もあると思う。

誰かを何かを想える気持ちが貴方にもあるなら

好きなものを素直に好きと思えるならきっと、歌えない歌は、ないわ。

貴方と同じでそう簡単にはのめり込まない私だけど

少しだけ、簡単には手放せないものがあるの。

少しだけ、だから惜しげなく注げられる。

少しだけ、だからなお大事にする。




この曲を聴くとき、その少しだけの人や物を思い浮かべる。

それを愛とか恋とか決めるのは第3者で、でもそれはそれでもいいと思う。

根っこは同じ。

2010年12月6日月曜日

散文とその人となり

知人友人著名人などのmixi日記やブログ記事を見るたびに

普段見ているその人の印象と案外ギャップがあったりする様が興味深い。

私自身を知っている人からすれば、私もその例に入ると思う。

散文や歌だと自分自身「何を伝えたいか」整理がつくので急かされる事もなく訥々とキーボードで打ち込める。

とりとめもなくおしゃべりは嫌いじゃないけど逆に「理路整然と説明しなさい」と言われると焦る。

ある意味歌会でコメントを言うのが苦痛なタイプだ。


しゃきんと真摯な文を書く人が、実際会って話すとふんわりした感じだったりその逆もあったり。

一見破天荒だけど、散文だと至極ノーマルな繊細さを見せていたり。

孤高そうな人が絵文字や顔文字駆使していたりw

もちろんそういうブレのない人もいたり。

どれもその人の「コミュニケーションに対する意識」みたいなものがなせるものなのだろうけど。


ただ、無味無臭な文章使いというか(上手い下手ではなく)意識が空白かな?というか

役者さんや歌い手さんは割と自分の催し物に関するPR文とは別にそういう感じが多い気がする。

それはきっと彼らの伝達手段としての意識はそっちではないというだけなのだよね。

願い



このまま、この穏やかな気持ちのまま

ただひたすら想う幸せの中で暮らせているうちに

終われてしまえばいいのにと思う。

見返りも望むことも忘れて。

2010年12月4日土曜日

No title

自分の頑なさにもがいているというのは不器用、と片付けるのは違うと思う。

己との対話、向き合う方向がいつも同じというのは意識的なものだ。


変わること、抑えること、受け入れる事イコール自分の世界を侵食し脅かし荒らす事と

決してそうは思わなくても心の隅でかすかに捉えてしまうきらいはないだろうか。


個性とかスタイルとかよく聞くけど、あってないようなものであり、

本人以外の者が言葉で語れる範疇で「この人はこう」とラベルを貼っていくようなものだ。

外へ外へと発するパフォーマーや表現者はそういうものを越えているような気がする。

伝えたい「そのもの」だけをクリアーに確実に届けるような。そこには演者の我や迷いなどはない。

No title

ドラッグストアの香水のコーナー。

あれこれテスターをくんくんするのが結構好きだったりする。

嗅ぐたびに、どの香りもそれぞれの物語があるんだなあと思う。

ちなみに好きな香水はCALVIN KLEINのエタニティ。レディスもメンズも。

言葉で綴る物語、今月の本誌感想でございます。



稲本さんのおかえりなさいの歌

これ、出迎えながらも出迎えられているのだよねえ。

時を経ても帰れる場所があるのはつくづく良い。



名塚さんの雨の歌

悲しみに触れたことを、触れたとは言わない。

これだけではなくどの今までの作品にしても

日々や想いをまろやかに「目配せ」している。


井椎さんの毎日玉砕の歌

たぶんこれはこっぱみじんにはなるけれども

また作り直しているのだろうね、しかも壊れる前より

一個部品が増えてたりしてるのだろうね。

その一個分が毎日積み重ねられて無尽蔵の豊かさとなっているのだろうね。

まんま感想で失敬、しーさん。

2010年12月2日木曜日

いつだって震えながら

実際のところ、自分自身へのあり方に対するのと同じくらいに

自作の歌については思うことはある。

その「思う部分」を修正したり加筆したり、日々を描いている。

納得できない日はすべてをほっぽり投げたり、やり過ごしたり。


不安に震えるのは同じなのに、前に進んでいくだけで勇気があると勘違いされる。

未だに満たされない心が、延々と帰路を行く。

それはいつかの、交通費がなくて歩いて通勤してた頃のような途方のなさと

なんら変わらない。

己の弱さだけを旅路の連れとして、今も歩いている。

背すじを曲げて、一歩一歩。

2010年12月1日水曜日

朝焼けに照らされる明日


アジカンの中でも好きな曲。PVもあるのだけどこのスライドショーがまた秀逸なのではっつけてみる。



そしてサンボマスター。

ちょうど2005~2006年あたりにかけてJ-COMの音楽チャンネルとお友達状態だった。
お出かけして散在する余裕と時間もなく仕事以外は結構引きこもりだったような気がする。
��006年の夏くらいにどうにかこの生活自体を立て直したいと思い、特定調停を受けると決めた時期でもあった。

今日というその1日だけが私の人生で「明日」なんて常に無いものだった。

ただ、今日だけをやり過ごせる事が唯一の望み。

口だけの慰めより通りすがりのメロディーが希望をくれていた。

��年前の今時期はたしか裁判所とのやり取りの最中で、面談に行く前に寄ったカフェの

ミルクティーのカップの柄がえらく持ちづらかったのを何故か覚えている。

雪深かった時の思い出話。

2010年11月30日火曜日

そだてる難しさ

社会的状況とかその他何らかの軋轢などに、押さえ込まれた経験があればこそ

芯とか姿勢とか己とか個性を、自分の中ではっきりと確立できるのじゃないかなあ。

親に食べさせてもらっているひとが「それが自分のやり方で人生だから」とか言ってもねえ。

それは子供の自主性とは別の問題。



世代的に子育てとか子離れとかで悩む人が周囲にいたりするのでそんなことを考えてしまった。

知人男性のとこに下宿している姪御さんがホームシックというか大学の勉強がハードなのと

環境の変化についていけなくて実家のお母様に泣きながら電話するのだそうだ。

「出来るだけ会話をしてあげて下さい」と彼にとってのお姉さんからのお達しという事で

なんだか大変らしい。けど根本的に何かがずれているような気もしなくはない。

学校などの関係でどうしても親の庇護下になるだろうけれども、それにしても精神的な成熟が

遅い傾向があるんじゃないかと、これまた別の知人(専門学校講師)から伺った。

それが原因で退学とかも多々あるらしい。つまり上記の姪御さんのような理由で。

そして「はいはい」と辞めさせる親も不思議だなあという話になった。


混沌とした社会情勢、猛スピードで日々変化し目まぐるしく錯綜する情報、その中から子にとって有益なもの

守れるものを探さなければならない労力と、それ以上に自分自身が同じ年頃に経験した事が

今のわが子にとっては役に立たない部分が多いという事。

結果脆弱にならざるを得ないほど大事にしすぎてしまうのも判らないでもないけれども。

生きる力を備えさせるような育て方、というのは難しいのだろうか。

2010年11月28日日曜日

いつか帰る陽だまりの場所

そこは日のあたる部屋で、階段と壁の間の隙間に

肩寄せて座って笑っている。隣に座る人の顔はわからなかったけど

幸せ、というのはこういうことなんだなと思った夢。



夢の通りにいく人生などない。

けれど最後はきっとあの夢の中へ

帰っていけるんだと思って生きている。


尽きるまで歩き通してみせる。

だから、待ってて。

あの暖かい場所で。




2010年11月27日土曜日

いもづる式でハマる

何か一つの、ちょっとした興味から更に根を拡げてゆく。

案外そういうパターンで物事を知ったり好きなものへハマっていったりする。

新しい事を無理に覚える、というのではなく興味を持てばどんどん深みに行くのは当たり前じゃない?

というB型的ノリで。


美術系の学校へ行っていた頃は、資料として買った本からがきっかけというのが多かった。

表紙のイラスト目当てで「日本の伝統芸能入門」とか買わなかったら、きっと歌舞伎や清元、浄瑠璃なんて

興味を覚える事もなかっただろうし、五行歌だってイラスト公募を探すために買った「公募ガイド」が

きっかけだった。そして五行歌を通じて知り合った歌友の影響で着物を着始めて、

その着物つながりでブログで知り合った方から「ヨミガタリ」などの存在を知ったのだった。


不思議とその時々でのめりこんでいたものは上手い具合に前へ進む道を開いてくれていたような気がする。

視野や道筋は自分で広げていくものだと思うけど、割合今は親御さんが子供に対して早いうちに

それを手助けしている部分がある。え?そこまで?というのが素直な感想。

関係ないけども「とにかく世渡りはうまくやれ」とよく母に言われたが上手くやれた試しはなかったw

それよりも実務的かつ生産性のある事を見て覚えた部分(料理とか)が今役に立っていたりする。


マニアというほど前傾姿勢でもなく気楽に楽しんでいるJAZZになじみが出来たきっかけは

スティービー・ワンダーの「Sir Duke」という曲からだった。

そこからデューク・エリントンを知ってCDを聴いて・・・という具合。

ミュージシャン同士の繋がりの幅というか、その関連から辿っていくと(共演とか録音の際の連名とか)

色々なスタイルがあるんだねえと知ることが出来る。

何か一つスタンダードな好きな曲があれば、そこから様々なヴォーカリストが歌うその曲を聴く事が

今はYOUTUBEがあるから簡単に可能だったりする。

アレンジの仕方でまったく違う個性であったりそんな妙も楽しめるし、更にそこから派生して・・・。

これは歌舞伎もそうで演目の「勧進帳」ひとつにとってもそれぞれの家の役者がやるのを比べてみると

古来からのやり方は同じでもまた表現されるものは違っていたりする。

優劣ではなくあくまで自分のフィーリングに合うものを見極め探すのは楽しい。

それこそフリースタイルで、マニュアルされたものに頼らずに。

「資料は人や図書館から借りずに買ったほうが身につくから」と専門学校時代の先生に言われた事を思い出す。

その頃から20代前半は軽く1~2万は書籍代に消えていたなあ、そういえば。

その頃身についたであろう何かは、目覚めてないのかなくなったのかは不明だけども。

2010年11月24日水曜日

Dear my next door boy

夢を夢のままにしておけば、終わらない別れもある。

そうして永遠に出会い続けるふたり。



2010年11月23日火曜日

天への想いも地の生き様も

美しい調べのみが高みとは思わないし、確かな現実こそが真理とは言えない。

お伽噺やファンタジーはむしろ好きな方。その裏に現実に生きているのと違わぬ真実があるから。



綺麗だけれど、届いてこない。

汚いからって届くものでもない。

それは何でだろうと考えたとき、テクニック不足だけではない気がするのだ。

その根にあるリアリティ。



キラキラと淡くまばゆく光る。しかし持てぬほど重いものであるかもしれない。

手垢にまみれて黒光りする。しかし割れば汚れていない本質を見出すかもしれない。

感じにくく見えざる部分を掴んでやっと、表現というのはできるのかもしれない。

これ、感性と言うより精神の柔軟性だろうなあ。

年々それも加齢と共に固くなるので、やはりストレッチは大事だ。

年甲斐なく生きよう。

2010年11月22日月曜日

おいでませ

におい、という意味が本来ある種の色を表す言葉だったという一節を何かで見て

あれこれ調べているが出自がわからない。

文字という形が大陸からやってくる以前の言葉はどんな多様性を含んでいたのだろう。



閑話休題。パーソナルカラー診断というのがある。

自分の肌や外観を引き立てる色彩を比較診断で探していくというもの。

私の肌はサマーカラーという種類になる。

それを日本の伝統色にあてはめて遊んでいた。

着物をよく着るのでこういう形のチャートが欲しかったし。


パーソナルカラー(伝統色)

中々当てはまる色使いがなくてちょっと苦労した。

着物でも顔に近い部分に(半襟など)持ってくると映える。

好きだけど合わない色なら下の方、帯や小物で合わせてもいい。

見てわかるように色ひとつとってもなんと豊かなニュアンスの日本語だろう。

2010年11月21日日曜日

No title

野菜

コラーゲン

お金



そして一番足りていないのは

色々な意味での

覚悟だ。


Addictive music

心地いいと対極に自分にとっての中毒性がある音楽もいくつかある。
共通しているのは精神的にロック以上に高揚していくというか。


MySpaceを発見したので本気でわたしも登録しようか大いに悩んでいる。
マドンナとのLIVEでのフューチャリングはこちら。これも見応えあり。
http://www.youtube.com/watch?v=JbDbBal53ig


ギターを弾けない私でさえも「これは凄いのでは・・・」と思ってしまったテクニック。
wikiで見たらばやはり凄い人らしい。→Al Di Meola
思考を止めて音だけ追いかけていくとなんとも心地いい。


これこそ中毒性の最たるものだけども。
Capsuleは日本の音楽ユニット。そのメンバーの中田ヤスタカ氏はPerfumeのプロデュースも手がけている。


北谷栄口青年会のエイサー。この青年会の唐船ドーイがダイナミックでまたいい。

2010年11月19日金曜日

Letter

東京も寒いでしょうね。

とはいっても貴方の周りはいつも賑やかそうだから

寂しくはないでしょう。

次から次へと景色が目まぐるしく変わる日々を過ごし

夜はきっと裸の自分で一息つけている頃だから

長々と書くのはやめにして、貴方の好きそうな曲でも聴いて眠ります。



今年も僅かですが、いつもの自家発電の推進力で走って行ってくださいね。

無理せず、あせらず、楽しんで。


ではおやすみなさい。

2010年11月18日木曜日

青春と歌声と

高校のとき1年間だけ合唱部にいたことがある。

もともと好きだったのもあるが、しかし高校自体が新設校だったせいもあって

部員は私と同級生の女子とふたりだけwという合唱というよりデュオ状態だった。

それでもローレライとか子守唄とか、今ではもう思い出せないがスキャットか何かを

練習した記憶がある(一応顧問の先生もいた)。

その後美術の先生に誘われ美術部に行ったりもう1人の子も帰宅部となり部自体はなくなったのだけど。



「天使にラブソングを」の劇中歌でおなじみの曲。

ハイスクールのクリスマスコンサートでコーラス隊が超ハイテンションで歌って?おります。

真ん中の男声部隊に注目。指揮の先生もハッスル。

ちなみに発表会などではちゃんとした合唱を披露しています。きっとクリスマスだからこうなのかとw

しかし学校ならではのお祭り騒ぎって独特の感慨があるなあ。

2010年11月17日水曜日

No title

何となくであるけど、地球の真反対や同じ国の違う街のどこかに


自分と似たひとがいる気がする。

持っている物より持たぬ物の方が多く

たどたどしく生きている、そんな誰かの為にだけ

私の歌が存在していたっていいよなと思う。

それだけの為に



今日もたどたどしく生きている。

2010年11月16日火曜日

どっちなのだろう

全国区になってきた(大泉洋のお陰で)北海道弁の「なまら」

あれは副詞扱いになるのだろうか。ちなみにしょこたん語の「ギザ」は接頭辞なんだそうだ。

強調なら同じ副詞扱いでいいような気もするけど。でも「超かわいい!」とかあるし。

新たな文化から派生された言葉って文法では計りきれないねえ。

ああ、こういうとき日本語を研究していた歌友がいないのが惜しい。


昔勤めていたデザイン事務所の上司の5歳のお嬢さんの口癖が

「ちょーなまらむかちゅくー」だったのを「それじゃ言葉の意味がダブらないか?」

と、お父さんが嘆いていたのを思い出した。

ともあれ、「うるかす(ふやかす)」「よしかかる(寄りかかる)」「まるまんま(丸ごと)」が

標準語じゃない事に衝撃を受けています・・・・。

2010年11月15日月曜日

活字に触れる、歌に触れる

「~の世界」とか「まさに~さんらしい」とか一括りに評価されるのって

本当に好きじゃないんだけど、先月の歌会の際ふとなんとなく自分の歌って

ジャンルがあるとすれば「もしかして・・・ヨゴレ系?」

と思ってしまったw

いや、それくらいきちんとした歌というか、四季を愛でもののあはれを感じ、という綺麗な歌が多かったので

久々に参加してみて今まで気にした事なかったことが妙に気になったんだった。


現在の札幌歌会では、五行歌を始めたばかりという方も多いと聞く。

これからどんな風に変化していくのかが興味深い。

同じ秋の情景を詠んでいても、この方は楷書風、あの人はボールペン字風、絵手紙風などなど、一人一人タッチが違う。

さらに、自分の内面を投影させていたり、お孫さんやお子さんが登場するスナップのように

表現されていたり、心象的に何か木や物をクローズアップしていたり、アプローチの仕方も様々だ。

これは本誌をしげしげと眺めている以上に、実際の歌会に参加してみると、歌そのものの

輪郭がぐぐっと前面に出てきてすごく分かる。多分本誌を読むより「歌」そのものに

触れているんだという実感がある。



作者本人から伺う雰囲気や味、空気感もその歌に対する感じ方の要因に含まれるからかもしれない。

むつかしいのだけど、活字だけでは「香り」は感じても「匂い」まではわからない。

「手触り」は分かっても「体温」までは難しい。



そういう意味で本誌の作品評や書評は本当に難儀する。

評をしてても「これって自己満足?」と振り返る瞬間がある。

��00%自分の感性になんて自信も責任も持てないから、脳の別の部分も使ってあれこれ思索するのだけども。

なるべくなら誇大感動成分は自分の作品にだけ使いたい。

耳障りがよくとも作者の薬にもならない事を言うのもどうかと思うし、何より評することの横着にしかならない。



とかそういうことを考えつつ入浴にいってきます。

しかし、ブログ作ってから妙にマメに更新しているな私・・・。

星に願いを

何も願う事がないことに気がついた。

そして叶えたい事も。

きらきらと輝いているだろう友たちの顔を思い浮かべながら

穏やかに夜空を仰ぐ。




2010年11月13日土曜日

LoveSongs


この人たちの「瑠璃色」という曲が好きなんですが、これもいい。
そう、愛で傷ついたっていいんだよね。







ベタですがこれも好き。衒いのない甘々加減。










かつての純粋さを思い出す自分の心がすごく穏やかなことに気づく。
こうして過ぎ行く事に慣れていくのかな。

2010年11月12日金曜日

秋の名残


日々「在ること」のうつくしさを

瞬間はいつも目覚めさせてくれる。

ケーキは2個まで

たまに歌会とかでも、全ての行に決め手となるような凝った表現を入れて

フレーズの羅列のようになってしまい、「思い浮かんだ言葉を入れたら、選びきれなくなって・・・」

という事を伺うときがある。


歌じゃないけど、これすごく共感できるのだ。

例えば・・

ケーキ屋さんへ行って、ガラスの陳列棚の向こうには、美味しそうなケーキがいっぱい・・・
チーズケーキもガトーショコラもミルフィーユも、ああ!どうにも選びきれないわぁ~!
えーい箱に入れられるだけ買っちゃえー!!


みたいなw

ふと思いついた素敵な言葉って宝石のように輝いて見える。

で、案外そういう時ってたくさん浮かんだりする。

これを使えばどんな綺麗な歌になるだろううっとり、と思う前に

このケーキの例えを思い出す。


箱に入れられるだけ・・・ったって胸焼けしちゃうわねぇ。
ちょっとだからこそ甘いものって美味しいのよね。
ここは断腸の思いで(大袈裟)2個くらいに抑えとこうかしら?


言葉はケーキと違って腐らない。

だからとりあえずしまって、暫くしたら眺めてみて、それでも輝きは変わらなかったら

使ってみるのもいい。

ちょっと控えてこそ伝わる思いもある。

見えない部分は読み手の領分だ。書き手と読み手の相互があって歌は成り立つと思う。

2010年11月11日木曜日

ずっと傍流

あまりそういう区分けは無意味であるけども

昔よく、アウトサイダー・アートなど見るにつけ「ああーこれは絶対敵わんわ」と思った。

それに刺激を受ける以前に自分の画力に萎えてしまったからこそ、すっかり描く事から

遠ざかってしまったのだけど。


不思議と今、五行歌などやっているけども、絵を描いていた時の迷いは一切ない気がする。

あてもなく叫べる自由、でも誰かが、耳を傾けてくれる事を少し期待してる。

詩歌の歴史はわからないけど、でも何か、伝えたいことがある気がする。

そういう人の方がきっと多いはず。

絡まりあった傍流の太い流れが、五行歌なのだろうか。

2010年11月10日水曜日

思ったとおり

「か」の字もございません。どうだ!(誰に言ってる)


Good night serenade

短夜の 星の震える音を聴いてる
君は誰 誰だろう

君の囁きをなぞるたび
忘れていた強さ思い出し
自分らしい息の仕方取り戻し
僕は歌う また歌い始める

ふたりで仰ぎ見る
嵐の後の空
波打ち際に打ち上げられても
手はつながったまま
おやすみを言う前に
半音ずつ 指を下ろして
確かめ合う
離れていても奏でる想いはおなじ




セレナーデって元はドイツ語だったんだねえ。
雰囲気的に歌だったら2番がありそうですが割愛。

妄想であれ何であれ形にしては逃げ場はないですね。
これは感じ方それぞれだけどたとえ妄想がきっかけだとしても
「妄想なんです♪」という風にてへっと笑えない。
だって形にしない前段階が一番気持ちいいじゃないか。
形にした段階で「ふう・・・」みたいな醒めたような感覚がたまらなく寂しい。
そしてイタくもある。我ながら。
でも、そのイタさ寂しさこそが、モーレツに歌じゃないか?と発見した。
結構こういうほぐし方で己を解放しつつ再確認してたりするのだった。

2010年11月9日火曜日

#



No title

子供の頃の休日のドライブ、車の中BGMにかかっていたカーペンターズ。

見上げれば青空で、道はどこまでもまっすぐで永遠に続くかと思われた。

あの頃のような青空を、もうしばらく見ていない。


あてもなく、またあの頃のような青空を見せてくれるひとを

ずっと探しています。

探してばかりいる一人旅です。




どうもどうも

再びの「歌ほぐし」


鍵盤を鳴らすように
その指で
まだ
君を
眠らせたくない


私のことですから色っぽい方面にほぐれるはずもない・・・w

まあこつこつ行きます。どんな物語になるやら。

思うに妄想とは、妄想として割り切るというか「おもいあそび」として

自分の内でふやふやさせているうちは、なんと楽しく健康的(精神にとって)なものかと思う。

2010年11月8日月曜日

言葉にして事なきを得る

人は核心を突かれると、本音を濁してしまう。

言葉にすることで発散もいいけれど言葉だけが全ての出口な訳ではない。

さらけ出せも出来るけど綺麗に隠す事も出来る言葉というもの。

たぶん言葉だけではなくで自身の実人生のあり方にも深く関わってくるわけで

本当に伝えたい事表現したいことであれば、飛ぼうか飛ぶまいか、進むか止まるか

迷い悩むより先にプライドなんていとも容易く越えられる。

No title

多分自分がこれほど迷うのを好きではないのは

世の理、当たり前の事、うつくしい瞬間、暖かい思いやりなどなどを

迷うその間に見過ごす事が嫌なのだ、というより見過ごしてはならないと思ってしまう。

数々の恩義や善意の手を振り払い、足蹴にして、捨てていったものはやまほどある。

踏みつけにしたすべての体温はまだ私の足裏に残っている。

それを引き換えにしているからには迷っている場合ではない。

どう頑張ったって人と人は迷惑を掛け合う生き物ならば

これからどれだけ浚われ奪われ裏切られようとしても

許し続けていく。

きっと見えないところで自分も同じことをしてきたのだから。




2010年11月7日日曜日

そうなのよ

何というのか、人それぞれの思いを認め合うというのは

突き詰めると「肯定」「否定」とかをずっと越えた先にある部分だと思う。

その思いを肯定する、ということではなく、対等とか平等に近いニュアンスではないだろうか。

うすらぼんやりと思っていたのだけど、認め合う=肯定と考えていると

ものすごく否定される事に過敏になりすぎる気がする。

それでは自分の思いすら平静に見つめられないし、肯定否定の視線は必ずしもその対象を

正面から見据えない。大抵上か下かだ。


十数年前に全国大会に出した歌を「あの歌は好きじゃない」と言われた時、漠然と「どこが好きじゃないんだろう」と

頭の隅で考えつつ時が経った今、なるほどなと判った。

多分今の私でもあの歌は好きじゃない。

大した事ない辛さでも大仰に書かねば耐えれなかった部分もあったけど、その大仰さが

五行歌っぽくても「クサすぎる」と感じたのだろうか。

言い切り型ゆえの、否定すらさせないほどの「そうだろ?」的な力。

読む側が思いを馳せる隙間すらないというのは、きっとその方にとっては歌ではないのかもしれない。

時を重ねて否定を超えて目線が対等になった瞬間だった。


ああ、歌ってすごい。

進むのを止めさえしなければ、あらゆるものが見えてくる。

2010年11月5日金曜日

見えない部分が結構凄い

何気ない言葉でも実はムキムキしているというか

「見た感じか細いのにふくらはぎ凄くない?」みたいな(違うなw)

自分の言葉に筋力がつけれればいいなあと思う今日この頃。

ゆるゆると今月の本誌感想ですよ。



甘雨さんの巻頭。

草木を潤す雨という意味なのだ、いい筆名だと思いきや日本酒の銘柄にも同じ名があるそうです。

交じり合っても濁らぬ愛。

個々が自立というか芯を持ってしても難しいけれど、互いにリスペクトする姿勢が大事なのかなと。



悠木すみれさんの特集。

シチュエーションは違うのだが「ヨイトマケの唄」を凄く思い出した。

巻き寿司の件なんかきゅんとくる。



樹実さんの佳作。

極限の旅。たしかに人の営みは酔える余裕があるのだよね。



また気がつけば追記します。

2010年11月4日木曜日

問い

私はこう!と思っていたものを打ち砕かれた事はありますか。

その粉々をやさしく振り返るように、許せない何かをあえて見据えた事はありますか。

そこから掴めたものはなんですか。

強さ弱さ、己があるかないか、それとは関係なく「掴めた」人だけを私は信じる。

ためしに心底自分を嫌ってごらん。まずはそこから。




十数年前の曲だけどなんて新しい。

2010年11月3日水曜日

いつからの時代が正しい日本語なのか

自分自身の思いを表現するなら、日常に息づいた今の言葉を使う。

逆に生の暮らしから遠ざかって、その音や調べ、叙情を楽しむという意味では昔の文部省唱歌など

しみじみと鑑賞したりするにはこの頃の時代の言葉回しが馴染む。

冬景色、という歌が凄く好きで鮮やかなほど情景が目に浮かんでくる。

一、
  さ霧(ぎり)消(き)ゆる湊江(みなとえ)の
  舟に白し、朝の霜(しも)。
  ただ水鳥の聲(こえ)はして、
  いまだ覺(さ)めず、岸の家。
二、
  烏(からす)鳴きて木に高く、
  人は畑に麥(むぎ)を踏む。
  げに小春日(こはるび)ののどけしや。
  かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
三、
  嵐(あらし)吹きて雲は落ち、
  時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
  若(も)し燈(ともしび)のもれ來(こ)ずば、
  それと分かじ、野邊(のべ)の里。


現代に生きる我々には逆に現実味が遠い情景かもしれないけど、それでも故郷への望郷のような

懐かしさを感じさせてくれる。



よく日本語が乱れた昨今・・・とか耳にするけど、個人的に思うのはいつの時代を基準に「乱れた」「壊れた」と

なってきたのだろうという事。

新しい文化や情報の付属として派生していった部分があるなら、それは壊れたとかいう表現ではなく

言葉の変化のスピードがあらゆるものの多様性と共に累乗していっているから、その速さについていけなくなって来ている部分なのかもしれない。


こちらのブログを見つけて興味深く読んだ。http://memo.hirosiki.jp/article/37853977.html

そこから抜粋したのがこの一文。そうだよなあと思う。

そもそも、美しくなければ愛せないという感覚がどうかしていると思う。
美しかろうが美しくなかろうが、そのことばで育ったのならそれなりに活用して生きればいい。
ほんとはそれこそが「母語を愛する」ということにつながると思う。
ことばは、日々新しいものが生まれて日々古いもの(語弊があるな)が消えていくけれど、変化しながらダイナミックな営みが続けられることばは生き続け、人間の生を編んでゆく。
ことばはいきもの。生きているということは愛されているということだ。
別に美しいかどうかなんて関係ない。



祖父母に育てられたのもあるせいか、今の時代では使わない言い回しを私自身よくする。

ハンガーを「衣紋掛け」美容院を「髪結いさん」あとは「天花粉」か。

時々口に出ると「今の時代に・・・」とは言われるけど(しかも結構高齢の方に言われるのが癪だ)、これは古い言い回しが好きとかではなく

私にとっては自身の人生に添ってきた生(なま)の言葉だからである。

時代を超えたリアリティな温みをこの言葉から感じて、きっとこれからも使い続けるのだろうなあと思う。

2010年11月2日火曜日

考えても謎な思い出

裏側の投影ででも書いたけども、当時居候していたというのが母親の彼氏?(というにはトウの立ったおじさんなのだけど)

遠洋漁業の仕事をしていて陸に上がれば常にゴロゴロしている人だった。悪い人ではないのだけど。


ある時学校から帰ってくると、知らない人数人がうちの中にいて、何やら談合中。

余りの謎なシチュエーションにその後ろでつったったままの小学生の私。

そんな私を一瞥し、それでも談合は数分続き、しばらくして一斉に立ち上がりぞろぞろと引き揚げた。

そして取り残された私。

怖いとかそういうのではなく「何なんだ?あれは」という疑問符だけが浮かんでは消えていた。

リアルでシュールで暗示的な夢を見ているような出来事だった。


後から聞いた話によると、その彼氏の別れた奥さんのご兄弟の方々だったそうで(ええ、赤の他人です・・w)

相続がらみのことで何やら話し合っていたとのことだったが、未だにわからないのは

何故わざわざ別れた旦那が居候している女の家でそういう話し合いをやっていたのだろうかということ。

結局そういうことも含め色々あって別れたのだが、確か37~8くらいだったかなうちの母は。

一回り以上年上だった気がする。そういう女の時期だったのだなあと思う。



普通に恋をして、一緒に幸せに暮らすということは

簡単なようでいて何と難しい事か。

しみじみ感じ入った11月。

独白と伝達と

自分のブログを読み返して気がついたけど、もの思いジャンルの独白に近い内容は言い切りに、

伝えるという前提であれこれと書く場合はですます調になっている。

考えてるのか無意識なのか?


自分の背丈と寸法でしかものを考えていくしかないんだわー何事も、と思ったときから

わりかし楽になりました。こういうブログなどのツールで発信していくという事に。

もちろん想像力は必要だけども。

これを思うたびチャップリンは本当にいい言葉を言ったものだなと感心する。

何もかも上手くいかなくても、これさえあればまた立ち上がれるかもしれない。

実際、どうにかなったもの。

2010年11月1日月曜日

お邪魔したりお邪魔されたり

左バーにあるジオターゲティングというブログパーツ。

全国からのアクセス数の推移をグラフにして毎日更新されてるのですが

北海道が多いのはmixiリンクや主に私からのwアクセス。

東京とかだと歌友か、そのほかだったら五行歌関係のリンクからだったりツイッターからだったりするのかな。

案外あちこちから訪問者が来てるのだなあと思う。

なんだか初めて来ていただいた方に対して、うっかり足を踏み入れたがこんなブログですいませんとも思う・・・w

結構お気に入りのブログが同じFC2ユーザーさんであったりして、訪問者リストにお名前を発見すると

嬉しい反面冷や汗ものであったりする。

昔から自分が「コレ好き!」って興味を覚えるものと、自己表現する際の方向性にぶれがあって

よくそれで「こんな意外な趣味があったのね!」とか驚かれる事も多々あった。

たぶん辿ってこられた方も「こんなブログを書く人がなぜうちに・・・」と思っているのかもしれないw




で、今更ながらカテゴリーの説明でもここに記載しておきますです。


五行歌について
始めて十数年、ほぼ日常と化した五行歌についてのゆるーーーい考察。
自分の意識の確認がてら書いているので、どうか余りあてにしないでください・・・w
五行歌正式サイトに掲示板があってそこに創始者の草壁主宰が、折に触れ言葉を綴っているので
そちらを覗いてみたほうが正当なもの思い論を垣間見れるかと思います。


もの想い云々
これも日常化している、自分の心と向き合って生まれた様々な考察。
ここに書いて客観視している事で、実際思い出し笑いする変なおばさんになるのを
防いでいる(防げてないかも)感があります。
とにかくニヤつくほど思索が好きなのでこのカテゴリー記事が多い。


本誌(あくまで)感想
毎月購読している月刊「五行歌」に掲載されてる作品のうち、自分的に心に残ったいくつかの
作品への感想。褒めも貶しもしないけど、これもまた思いに向き合う学び。
書店には置いてないのだけど、購読は出来ますので五行歌正式サイトのリンクから
興味持たれた方は申し込んでみてくださいませ(宣伝、宣伝)。


ゆるゆる歌作
自分が歌を作る上で思うことや工程などなどを忘れないように(忘れるんだコレがw)
書き留めている。自分なりの方法や自作での実験みたいなものもある。メモ的意識で書いてるので
大したことは書いておりません。
そう、人様の作法はあてにならぬものでございます。(なぜか太字にしてみる、そして敬語)



日々(ダメダメ)
デフォルトな私の日常ですw基本ドンくさ子ちゃんなので・・・。


日々(そこそこ)
思うにそこそこなことって一番平穏なんじゃないかしらと思うこの頃。


このブログのこと
当ブログの説明でございます。


Music in my life
好きなジャンルの音楽やパフォーミングアートなどなどを綴っています。声というより
ハーモニーフェチなのかもしれません。JAZZ率高し。


ことばの快感
日頃手慰みの言葉やつっかかった文字などについてあれこれ思うカテゴリー。
なれないだろうけど言霊使いへの終わりなき道。


楽しみ下手同盟
1999年から十年近くハードでタフな歳月を生きてきたのですが、そういうのが垣間見えるかと。
mixiからの転載。


まだ記事にしてないカテゴリーもあるのだけど、なんとなくずっと挙がる機会を失いそうな気がする・・・。

カフェとかうちごはんとかは多分ツイッターでつぶやく事が多くなるでしょう。

No title

五行歌の話はどうしたのかと思われても、懐かしさに奔る心は止まりません。

ちょうど中学~高校時分はバンドブームで、今とはちょっとまた違った盛り上がり方でした。

何というかパワーの質が違うというか、芯が重いんですね。
















数々のこういう歌を聴くたび、紙の上の二次元の薄さを思う。

と書いて気がついたが、たぶんこういうライヴ感の躍動とか体感を

リアルに表現したいというのがあるのだなと思った、自分自身。

見たところ文字は文字でしかないんだけど、受け手の心に瞬時にどぎゅん、とまで行かなくとも

後からじわっとくるような。

Singerの
つたう額の汗が
私の心を滑り落ち
あなたの
瞳を揺らがす


むちゃくちゃ書いてるなーと思いながらやっぱりNokkoの変わらない歌にうっとりするのだった。

2010年10月31日日曜日

Mariaの「Ma----」で抱きしめて

またまたウェストサイドネタですが

前回「Maria」の歌の聴き比べを書いたときどこらへんをキーポイントに

惹かれたのかなー?と考えてみた。

歌の間奏部分の、とにかく「Maria」を連呼するところの終わり頃

Mari---a-,Ma------と伸ばす部分の強調部分の強さな気がする。実際の音楽記号はどうなっているかは

わからないけどこの箇所が思いっきり強い気がする。

そして歌そのものの肝なのかなとも思った。





デヴィッドに再び登場していただいて聴いてみる。

1:54あたりの部分。ちゃんと抱きしめるような仕草も。

これがホセ・カレーラスだと個人的にちょっと暑苦しい(むちゃくちゃ言ってますがカレーラスも好きなんですw)

結構この曲が最近の精神安定剤となっている。


好きな人の名前というのは、それだけで神聖で美しい響きなのだろうなあ。

2010年10月29日金曜日

(笑)はどう笑う

さしておかしくなくとも、つい語尾に付けてしまえば間が持つ記号。それは、コレ。


(笑)

私も便利に使ってたりするけど、チャットだったら→wだけでも通じたり、でもこれも

多用しすぎると凄く不愉快な印象を与えたりもする。

海外だと→ :) (首を横にしてご覧ください)慣れるとこういうのも可愛い。

この(笑)をテーマにした五行歌も何かで拝見した事あって、確かこの記号性に対する批評的意味合いが含まれてて

いい発想だなーと思ったことがあった。

今ちまちま書いているヨミガタリ前提の歌で、これをつけてみた歌を作った。

ト書きの一種として読んでいただくとき、どういう表現になるかなーと

今から興味が湧く。

読む人によって(笑)に対する印象が違うだろうし、その差異はどこらへんにあるのだろうと思う。

私の呼吸も、読む人の呼吸も共に暴かれるヨミガタリ。うふ。

そうだねー

今は旦那さんについていってアメリカにいる歌友。

共通して好きなアーティストの1人にQUEENがいる。

メールもしたいけどメアドを忘れてしまったという・・・・元気かねえ。



たぶん何がいいのかと言えば、声なのだと思う(結局そっち)。

フレディーって美声だなあとしみじみ思う。衣装は別として・・・。彼をしばらく見てから

他のメンバーを見ると「ああ、普通の服だ」とちょっとほっとするw




好き好きKiller Queen(何故に毛皮・・・)




揺り動かす、という意味があるのだねえ<Rock You




アカペラでBohemian Rhapsody

全部声ですよ!是非聴いてみて!

2010年10月28日木曜日

年を経て熟し枯れ

ある歌舞伎役者の方が対談か何かで言っていた。

「若い頃や中年期には身体もよく動いてはいたが、役の性根を掴むには未熟であった。

しかし60~70とようやく役そのものに振る舞えるようになった頃、身体の方がついていかなくなってくる。」

その際の工夫が難儀だが大事・・という話。



ああ、人を想うのも同じだなと思った。

そして未熟だった頃、がむしゃらにぶち当たりもしなかった。

推して知るべしな、今なのだなと。

No title

なんかかっこいい事やるなーとちょっと悔しい&羨ましい状態。

私もぐだぐだとしてられないわと、と歌も整理しなくては。

まだ刺激を受けれる分、そういう人間があちこちにいる分、きっと私は大丈夫。まだ奔っていける。

2010年10月27日水曜日

First Snow

札幌、初雪でした。

風情のないぼた雪吹雪だった。ああ、北海道らしい・・・。

シーズンには雪かきにうんざりしている我々、実は世代を超えて女性限定のある感慨があったりする。

それは「初雪の瞬間だけ、ちょっとときめく」のだそうだ。

本当に瞬間だけだけどw

園児も、女子高生も、奥さんも、OLも、おばあちゃんも、その時だけは

ふっ、と乙女になる冬の吐息。



また雪のぬくもりに包まれて冬を越す日々が始まるのだなあ。

積もるたびに、なぜか胸のどこかが軋む気がして

年々せつなくなる。

2010年10月25日月曜日

No title

下書き段階で、やっぱいいやと消してしまう。

この記事で3度目ですよw

キーボードの魔力、いらん薀蓄や偉い事を打ちたくなってくる。




12月号用の歌自体はもうあるので後は出すだけ。

さて・・・。昼寝でもしようか。

最近寝足りない。

分かち合っていた日々

基本自分が恋をしている時だけ、恋歌は作る。

現在形の思いこそが最上級の思いだと思うので昔の恋歌など見ると単純に

1作品としてしか感慨がなくなってしまう。Am I cool?

ところが音楽とかはそうもいかない。

共通して好きだった曲とかあって、その相手とは恋になる前に友情に落ち着いて

いい友人ではあるのだけど、たぶんその曲を聴くたびにその時の切ない事を思い出すのだろうなと思う。

ちなみにその曲はJAZZ。・・・YOUTUBEのお気に入りJAZZばっかw

これから先寄り添うことはないだろうけど、音だけは傍にいる。




Ella Fitzgerald 彼女を教えてくれた彼に感謝。

2010年10月24日日曜日

ゴミ出しをするついでな歌作

今、わたしのパソコン周りにあるものをとりとめもなく列挙してみる。

多分靴下を買ったときについていた値段のタグ(の外したもの)。

リキッドファンデーション。

マグカップ。

ガラスコップ。

3色ボールペン。

携帯用のねじドライバー(マイナス)。

つまようじ。

食パンを買ったとき袋を止めているプラスチックの留めるやつ複数。

輪ゴム。


まあ、こんな感じで雑然としているw片付けないさいよという話は置いといて

なぜここにそういうものがあったりするのかは様々な理由や要因があって

それ即ち私の日常の根底を支えている部分でもある。

それらが置かれるに至った状況を遡って思い出し、時にはその状況そのものだったり

そのものずばりではなく、思い起こしての感想だったり、単なるずぼらを己の根底にある渇望みたいなものに

こじつけてみたりと。

掬いとり、掘り起こし、繋いでみたり、そうした後でそれらをリアルへ呼び戻し

片付けたり捨てたりする。軽く机の上でも拭いたりするかもしれない(かも?)。

そしてそれだって歌にはなるのだ。「そこに在る」という意味があるのなら。



基本何かを「つくる」ということに熟考はする。他愛のないことでも大事な事でも

結論が出なくともただ「考える」という行為がかなり好きだが、歌の題材探しに無駄に悩む事はしたくない。

自然な呼吸と考えると机上の上で頭を捻るのはあまりにも自分にとっては不自然だ。

日々の繋ぎ繋ぎの瞬間に立ち止まり、目を凝らし、耳を澄ます。

寝過ごして、髪も梳かさず地下鉄の駅まで大股で歩く。そのリズムだって歌だ。

燃えるごみの日をまた忘れて、置き去りになっているごみの袋も

ぼんやりした頭で考える今日の予定でも

目の前の男性の薄い頭頂部の現実から逃れるための歎美な妄想でも



日常に組み込んでしまいさえすれば、あらゆる深層からの気づきが暮らしに溢れている事が判ってくる。

それらを掬い尽くすにはいくら生きても足りないし、先が見えない。

それが楽しくて生きているし歌という形に未だ飽きていないという事なのだろう。



そんな事を考えながら茹でたパスタはまた腰のないアルデンテなのであった。

しかし、歌のネタが出来たと思えば不味くもない。

2010年10月23日土曜日

Moon Music

歌ほぐしや和歌など月が続いていたけど今夜は満月らしい。

音と目で楽しむ月見。





こちらは手嶌葵のMoonriver

2010年10月22日金曜日

いにしえの・・・

色々な意味合いや物語を感じさせる古典はさながらスタンダードなJAZZのよう。

百人一首にもいくつか好きな歌がある。それこそ言葉そのものの流麗さや美しい調べもあるが

そのフレーズに幾重ものイメージが浮かんでくる様を楽しむのが好きだ。



御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ 
大中臣能宣


篝火の灯りに揺らめく心、刹那的に「作りこまれている」歌であるけども、酔わされてもいいな、と思える。




風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな            
源重之


同じ恋への悩みでも更に激しく熱い。似たようなスタンスの女性歌人の歌の湿った風情と比べると、

実のある切なさというのがリアルに伝わってくる。泣き節はどことなく嘘っぽさを感じてしまうからか。




秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
左京大夫顕輔

古語では「影」は「かがよう」が語源だそうだ。つまり影だけではなく「光」もセットだった。

いつくらいから影は影でしかなくなったんだろう。

見えぬ真理を照らす影をこの歌から思う。



あなたの心を今照らしているのは何ですか?

光にせよ影にせよ、惑う足元を照らすものであればいいと願います。

2010年10月21日木曜日

No title

できましたー。

我ながら書いていて思うのは、どうしてこういう詩形式になると

自分と思えないほどセンチメンタルになるのかw(しかもダメ男チックな主人公だ)ちょっと恥ずかしい。

元来音(おん)を考えて歌作する傾向なので、メロディが載っているという設定で書いている部分もあります。

ホントに曲つけてみると面白いかもだけども・・・・。でも作詞というのはちょっとやってみたいこの頃です。

歌と微妙に違う脳の回路を使うようでその時の発見が面白い。



夕待月(ゆうまちづき)



見上げた暮れる少し前の
空にひっそりと白い月
満ちるまであと少しのその横顔が
置き去りにした夢に似ていた

普段どおりの今日が終わり
そっと頁を閉じるように
変わり映えのない明日のために
かかとに引っ掛けた心すり切らせ帰る

思い出すたびに
優しい記憶だけがまだ残っている事
癒されるけど、でも
そんな繰り返しもまた空しいんだ
ビルの切り立つ街の闇に
夕待月はとり残されて
時の経つ早さとせつなさに
ただ微笑んでいるだけ


季節を重ねて無為に無駄に
過ごしてきた僕を笑うだろな
はじけて笑っていた君との日々はきっと
月の欠けた先の彼方にある

帰りの電車の窓越しに
ゆっくり想い出も追いかけてくる
今夜の夢に間に合うように
なのに走り切れずに遠ざかる現実

もつれた絆を戻せなかった
拙いあの頃の僕
前のめりで走ること諦めても
つま先だけは同じ先を見つめていた、そうだった
目覚めれば何時もと同じ朝かもしれない
それでも少しは変わっているのかもしれない
ほんのり佇む夕待月
皆の夢の夜道をそっと照らす

僕の夢の夜道もそっと照らす



あの五行歌からここまで拡げてみた。

で、それをさらに五行に戻すとなると

一つの歌じゃ足りなくなる気もする不思議。

自作の場合だとやはりパンチと切れが持ち味(しかしそれすらあるのか怪しい)という確認が出来たのは収穫ですw


これ、またやってみよう。楽しい。

歌ほぐしの考察

あれは前にmixi日記でちょっとやってみた、「知り合いの歌人さんをイメージした五行歌即詠」に

ちょっと似た感覚も受けた。

あれは歌人さんの人となり、作品の世界観を含めてイメージとして歌い上げる・・・といった感じだったけど。

昨日の歌ほぐしに関しては、あくまで自分的に長らく使ってなかった感受性部分を(だってほんとに書いてなかったからねえ)

引っ張ってねじって緩ませるストレッチ感覚のイメトレなのだ。

何らかの対象に添って呼吸も添わせる、訓練的な意味合い。

今までしたことない方法論だからということも私にとっては大きい意味である。

でもきっと行き着く先は今までやってきたことと同じなのだ。ベクトルの違いなだけで。


歌うということは本当に自由。

頑ななまでに進むのも、その時々で緩ますのも。

基本前傾姿勢ではない。

ただ自分が更新されたいだけ。

2010年10月20日水曜日

浮かぶときは

今日の夕方、日もくれるのが早くなったと思いつつも空を見上げれば

月が見えた。

帰路につく人、仕事へいく人、それぞれとすれ違いつつささっと歌にする。



夕闇前の

とり残されて
なお
微笑む



推敲なしのすかすかだが、これを少し加工してみる。

瞬間の凝縮を、表題のごとくほぐし広げて散文にして、一つの詩のような形にする。

自作であるがゆえの気楽な実験である。


さて、まずは前出の五行からあれこれとイメージを書き出してみる。

一日の終わりに浮かび上がる懐かしい思い出や失くしていった夢の象徴としての月

そんな情景が浮かんだ。

時間が経つという切なさと優しさ、シチュエーションはこの歌が浮かんだ場所のビルの

立ち並ぶ街角が落ち着くか。



そんなこんなでちまちまと裏で組み立ててみる。

2010年10月19日火曜日

やわらかく揺るがず

普段の力配分はそのままで

こんな風に意識してみて。息を溜めて溜め込んで、


一気に吐き出さないで、そう。


お腹の中で漂わせ、身体のすみずみまで行き渡らせ


ふわっと(そっとじゃなく)

吐くの、音をのせて。


ただ吐くよりずっと伝わるはず。


気負わず、重なる呼吸のひとつとなれる貴方であるように。

あてもなく言葉を綴るたのしさよ

やはり何かを創ることは楽しい。

自分の人生の意義を思うときやはりそこにたどり着く。

置いてきたもの全ての代わりになることはなくとも。

綴る事でささいな発見が出来たとき、未知のものを見出したとき、まだ見ぬ景色を垣間見えたとき

己が己である事の寂しさを味わえるって贅沢だなあと思うのである。



日々が追い剥ぎのように「己」を奪い取っていった空白はまだまだある。

いっそ誰かに埋めてもらうのも悪くはないのかもしれないけれど・・・・。

2010年10月18日月曜日

わたしは貴方の愛の奴隷

「マカロニほうれん荘」(知ってる?)でマンモス稲子さんが歌っていたのはこれだったのか!と
最近発見した。



よく聞くとすごい歌詞だけど時々無性に聞きたくなる。
圧倒的なものってもう個人の好き嫌いを超える。

2010年10月17日日曜日

明日になれば

雨があがって、半襦袢が乾いていれば着物着て歌会だ。

��年半ぶり?になるのかな。

とりあえずよく着る角通小紋を羽織ってみる・・・・思ったより太ってないはず・・w

髪が伸びっぱなしなので結わなきゃだけど。

いない間も私のことがよく話題になるらしい。



帰り着くとこは、自分の心の中。そんな歌を昔書いたけどまったくその通りだ。

��年半前より、どうか豊かな寂しさであるように。

ちょうど150回目だった

「F島さんお久しぶりでっす」

「おおー久しぶり!それでさぁ・・・」

何の話の続きですか?w



そんな感じで始まった久々の歌会、1年半ぶり?と思っていたら、ちょうど3年目なんだそうだ。そんなに!

きりのいい回数の時に出席できた。新しい方も来られていてそれでも相変わらずの

明るい、ゆるい、札幌歌会でした。忘年会はバイキングだというので楽しみ(歌は?)


何だか代表復帰が規定路線になりつつある・・・・。

色々わたしが来なくなって役割分担ができているので、前のように私一人全部やらなくてもすむ様になった。

皆さん成長したのだねえとしみじみする。



あ、来月号久々に歌が載るはず・・・。テーマ「鍛冶屋」

ささやかな意義があるとすれば

人間しかできない「表現する事によって人為的に感動を生み出す」ということ。

それはアートだったり歌だったり演劇だったり詩歌だったりするだろうけど、ある種の人にとっては

「ふーん、なにそれ?」の世界である。

でも思うのは、あえて「なにそれ?」と感じる人側に向けて発信されることに表現するという事の意義があるんじゃないのかなと

なんとなく考える。

例えばそれを見たり、聞いたり、読んだり、触れたりしたことで

受ける側がほんの少しだけ(ここが重要)心が開放されたり、風通しがよくなったり

転んだ傷の治りが早くなったり、また明日を歩ける力を回復させたり、心を豊かにさせたり。

ストリートライブやパフォーマンスなど見るとその原初的な力をとても感じる。

受ける側の深層に「ほんのすこし」を積み重ね続ける。



自分にとっての五行歌は実に個人的なものではあるけど、こういった表現する行為って

感受する側にどういう効果をもたらすものなのかとも思う。

でも私は結構ひねくれてるので「詩歌って素晴らしい!」とは簡単には言えない。

発信する側、受ける側、相対的に考えた先にその答えがある気がするから。

2010年10月15日金曜日

狭まる、というおそろしさ

思うごとに広がっていくというが、時々何気に自分のキャパシティというか

感受性の幅が狭まっているんじゃないか?という怖さを感じる。

周囲半径100mの範囲で満足しているのじゃないかと。いやだいやだ。

得意の取り越し苦労かもだけど。

2010年10月14日木曜日

手のひらの種

歌会プリントとかの作成とかしていた時もあるせいか、誤字脱字が一番へこむなあ。

ご指摘くださった方ありがとうございます。訂正しておきました~。

慰めついでにmixi日記がアクティブだったときにも貼ったものをここにも貼ってみる。




私の冬はいつまで続く?

2010年10月13日水曜日

thank youです

テストがてら書いてみる。

使ってて実感しているけどFC2、すごく高機能。そして使いやすい。

かなり痒いとこまで手が届きます。

左側にツイッターのブログパーツを置いてみた。

別にアカウントは持っていたけど、新たに作成。

たぶんぼやきが多いと思われます・・・。

思うにわざわざ伝えたいほどのつぶやきって早々ないよね(本末転倒)。

伝えたいのなら歌にするし。

でもツイッターで歌を載せる気にもならず・・・。

基本読み流しなツールじゃないだろうか。なんだろう、自分にとっての歌って

ぼやきやつぶやきであるけれども、歌は歌なんだよ。微妙なニュアンスですが。

特別な想い出

終わった恋って忘れるけど、初めて告白してくれた相手って忘れないよなあ。

と、なんとなく雨宿りしながら命日はまだ先なのになぜか思い出した。

しかしそのあと、ときめきと人間のずるい部分を同時に垣間見たのだった

きっとあそこで私の時間は止まっている。

今もまだ。

2010年10月12日火曜日

妥協の銘

座右の銘は何気にあるけど、指針というより自分が例えば人生やることなすこと行き詰った際に、

上手い具合に気持ちを安らがせて妥協へのきっかけとなってくれるかが判断で選ぶ気がする。

どこかで「言葉ごときで人生は変わらないだろう」という気持ちがあるので、それだったら無意味であろうとも

緩和剤的エッセンスがありさえすれば何だっていいじゃないか?とも思うのである。



促音とカタカナの伸びやかさが絶妙かつ、心でつぶやけばなんとなくそんな気にもなってくる

素敵な言葉。


結果オーライ






流麗なメロディを醸し出しつつ、すっと心に入り込んでくる衒いのなさ。


後は野となれ山となれ







あと最近発見して、これこそまるで私の歌のスタンスそのものだ!と感激したのがこれ。


魂で誤魔化せ!






そう、誤魔化すと言った以上は逃げ場はないのだ。そういう隠れた意味も伝わってくる。

逃げない人間だけに、妥協の銘は優しく輝き明日を導いてくれるのだと思う。

2010年10月11日月曜日

時代性とか大衆性とか

kiss.png


感受性や物を見る幅が固まってしまうかもしれない。年を経る怖さを思うのはそういう時。

誰しも覚えがある、理屈じゃない恋の原因不明意味不明瞭な疾走感。

どうかどうか(わたしが)忘れませんようにと書いた。

観念的日本語ロックな歌だけど、女だって「やめられねぇ」のである。


人によっては「この言葉は使わない」とか色々ある。カタカナは使わない、という人も前はいたような。

自分の歌に関しては、その時の自分の表現したい思いと違わないなら、カタカナでも外来語でも略語でも

構わないなと思っている。「~というか」→「~ていうか」→「てか」といったように今風に言葉も

短くなってきているけど、個人的には「てか」はOK。つなぎの行に使うと面白そうではあるし

何よりその時代でなくては語れない内容であるほど、歌全体の伝えたい事の邪魔をしない限り

使っていけばいいじゃないかとも思う。



知人とツイッターについて話したことがあって、あの規定文字数が人によっては「少ない」か「多い」かで

楽しみ方も違ってくるだろうけど、携帯メールを使い慣れていれば実になじみやすいツールでもあるし、

他人のつぶやきをリアルタイムで鑑賞するというスタイルが、今の時代の他者との距離感の取り方にも通ずるものも感じたり。

逆に論理的に物事を考えたり構築したりする意識がどんどん希薄になるのでは?という意見が知人から出た。

それもそうだろうけど、ちょっとセンスのある人なら使い分けの柔軟性は持ってたりするのじゃないかなあと思う。

でも昨今のブログなど読んでみてもセンテンスの短い文章がすごい多い。

そして読む側もそういう短さを求めているきらいがあるのかもしれない。

五行歌などはまさに時代にあった部分はあるけど、ただ、これ歌作だけに限らず延々と悶々と考え続ける根気みたいなもの

ベクトルが正反対なその部分の必要性。効率も考えればいいけど、無駄も必要だよねという。

「五行で収まってるからいんじゃね?」みたいな若人が出てきたらなんか大変そうw

そういう葛藤もこれから出てくる可能性も無きにしも非ずだよなあと思う訳である。

洗濯機の藻屑と・・・

今しがた洗濯をしていて、すすぎをしようと蓋を開けたら


一面になにやら紙のような屑が浮いていて、ポケットにティッシュを入れたまま

洗濯した覚えはないのだけど・・・と思いつつ、中をかき混ぜて見ると

何やら覚えある文字が書かれていて・・・・・




これは・・・・・・・・・・・・・・・・・・もしや・・・・・・・・・・・・



洗濯物を掻きだし底を探ってみると・・・・あった。



本一冊が(泣)



洗濯物が紙だらけはいいとして、本が・・・・本が・・・・・。


ちなみに洗濯機の藻屑と消えた本はこれです。
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古い言葉や「あの言葉にはこんなルーツが!」というような発見もあり、字引式だから読みやすいです。
時代劇以外にも時代小説や歌舞伎などでも参考になると思われます。


しかしいつの間に入ってたんだろう・・・・。




あぁ・・・。

2010年10月10日日曜日

某レンタル

割と好きなジャンルに関しては止まりません。

ウェスト・サイド・ストーリーのナンバーで好きな曲は「Maria」なのだけど

結構歌い手によってかなり差が出る感じがする。

ホセ・カレーラスから布施明まで聞いてみたけど、個人的にはこの人の歌い方が好きだなあ。



ベルナルドは絶対男前でなきゃいけないけど、トニーは洗練されてなくともいい(しかし歌は上手くなければいかん・・)。

ストレートに伝わるものがあれば。Mariaになりきって聞いてみてくださいw


感動を切り取って再現できる表現ツールはそんなに多くない。

写真はその一つだけど、もちろん五行歌だってそう。

外からの感動は確実にわたしの表現の幅をも広げてくれる。

どこかで誰かが今日も奏でるメロディーを、探す毎日だ。

2010年10月9日土曜日

香と音

香道では香を「聞く」と表現する。



では音も香りがあるのかしら。



あなたが燻らせる音は



どんな香りを醸し出すのだろう。

Favorite musical

歌舞伎とかミュージカルとか宝塚歌劇とか、二十代最初くらいから好きで、多分専門学校の頃の友人が

ヅカファンだったのでその影響もある。たしか最初に買ったビデオが「巴里のアメリカ人」だった。

ジーン・ケリーのダイナミックなタップダンスもさることながら

主人公の友人のピアニストの役で出ていたオスカー・レヴァント(アステアの『バンド・ワゴン』にも

出演してる)の味のある存在感が結構好きだった。日本人であの味を出せそうなキャストは誰だろうなあ。




ジョージ・チャキリスがかっこいいいのだ。外国人にあるまじきなで肩だけどw

チタ・リベラは「雨に唄えば」にも出てたねえ。








そして巴里のアメリカ人。

場面ごとに実際の絵画の世界がイメージされている。

ファニーフェイスなレスリー・キャロンは踊っている時が一番可愛い。




CAT'Sから。

この鉄道猫を見るたびにキュンとくる。



そしてラム・タム・タガー。Sexy。




レ・ミゼラブルの10th Anniversary Concertから。

リア・サロンガは「アラジン」のプリンセス・ジャスミンの声をやった方。




オペラ座の怪人から。

個人的にこのナンバーが好き。

かぎりなく純愛だからこそ、記憶や心に残るものなのかも。

Letter

たまに置き去りにしてきたものが巡り巡って形を変えて戻ってくるときがある。

でもそういう時は大抵いつも遅すぎて。


もしあの時出会っていたのが、あなたのような人だったら

変わっていただろうか。


いえ、それでもきっと愚かな自分は、何時もの癖のように雨の日なのに傘を置いたまま忘れ

わかりきったような口ぶりで「そんなものだ」と土砂降りの中歩き続けていただろう。

色々あってこの年代で出会えたのがよかったのだ。

巡り会えた感謝と余りに遠い距離に絶望しつつ、それでも同じ時代で

きっとこうして同じ夜、言葉を綴っているのかもしれない時間を共に過ごせている事が嬉しい。

いつかどこかで、あなたの声を直に聞かせてね。

そしてお酒はほどほどに。

ではまた。

2010年10月8日金曜日

今しがた

自分で200アクセス踏んでしまった・・・。


それでも足を運んでいただける方もおられるのはちょっと嬉しい。

たぶん五行歌関連のリンクから飛んできてる方が多いと思われますが、いかがですか。

きっと大した内容でもないことにがっくりなさった方もいる・・・気がする。

自らの内から生み出す事に関しては真摯たれと思いますが、それ以外のことは結構適当です。

世を憂うでもなく、昨今の政治への憤りを耳にしても

「私だって親からは、ほぼ世間様に丸投げされたようなものだわ」とも思い

丸投げのリレーで循環されているのが社会でもあるんじゃないのか?とも。

今できること、やれることをするだけ。

混沌とはしてるけれど、何にせよ大人になって今生きているこの瞬間の

なんと生きやすいことか。首相が誰だろうがそれは変わらない。

子供の時分は扶養家族ゆえの不自由さに「はやく大人になって自立したい」とか

そればかり考えていたものだけど。

今の子はどうなんだろう。きっと昔よりはずっと自由なようでいて不自由なのだろうな。

そしてそれをどうすれば解決するだろうかと、考える力さえつけてもらえてないのだろうか。

2010年10月7日木曜日

旅先案内人失格

自分の人生すらふらふらと歩いているのに、よく人に道を尋ねられる。

しかし、スマートに教えて差し上げられた試しがほとんどない。

観光都市札幌市民としてカメラのシャッターを切るのと同じくらいに当然のホスピタリティだけども

どうも一丁目ずれていたり、表通りのつもりが裏通りを教えてしまったり、ありもしない目印を

憶測で教えてしまったり(これは酷い)なかなか上手くいかない。

大抵観光客10人のうち9人が聞くのが時計台の所在。

案外あれって想像より結構こじんまりしているので、見つけづらいらしい。

確かに前「時計台どこですか」と時計台のほぼ目の前で聞かれたことがある・・・。

そしてこれ!といった目立つ目印もないので、教えるときにちょっと工夫がいる。

問題はその道を聞かれた時の場所である。

その場所をスタート地点として道順を整理して教えなければならない。

これ、大通西4丁目で聞かれれば楽なんだけど、大通西8丁目とか非常に微妙な距離からだと

妙に悩む(我侭なw)

あと、東西南北の碁盤の目で整理されている中心部の区画だけども、それがどうやら

方向感覚を麻痺させているみたいで、前にJR札幌駅(北方面)へ向かっているつもりで

すすきのを南へとひた歩いている観光客のお嬢さんに道を尋ねられた事があって

正しい方向を教えたら愕然としていた。で、それが二回ほどあった。



なんだか地元ネタで申し訳ない・・・・もの思い関係の記事は眠くなければアップするかもです。

恥を恐れるな





荒野から見上げれば秋空。そんな感じの好きな曲。

今は無きHUSKING BEE・・・(再結成しないかなー)

私が彼らの曲が好きなのは、その都度聴くたびに違うかたちで胸に迫ってくるからか。

無色透明で、ロックで、ぱさついて、どこかに涙の跡が残っているような。

こういう五行歌作れる日が来るのか・・・来ないかもな・・・・。

云わば自分にとっての歌作って、あくまで自分が着たい服を作る自己満足のオートクチュールなのだ。

もちろん「わたしも着たかったの!」と着てくれる物好きな方もいたり、それはそれで嬉しかったりもしますが。


これは良くも悪くもない意味で、自己満足の延長なんだと突き放した眼差しで「自覚」して歌と向き合うって

結構大事なんかなと思ったり。

ふふんと、表題のごとく開き直ってみる。

若さの特権(いや、もう若くもないんだけどw)ってそれくらいなものだ。

2010年10月6日水曜日

みずからにそしてあなたに

他人の名言に
感心ばかりしていちゃ
だめだぜ
あんたの指針は
あんたが作るもの


うん、そうだ。
だからもう、私の中から生まれるものに関しては
私自身の足元しか見ないと決めたのだ。



あなたはどう?

2010年10月5日火曜日

久々の本誌感想

今日の札幌は雨。


久々にまともに見た歌誌。

そして久々の王生さんの歌はやはり王生さんでとてもよかった。

なにげなく持ち上げて最後に突き落とす、そしてその突き落とされたい側に

読む側がなりたくなるのが魅力。

塩辛と濃厚チーズケーキを交互に食べたようなこってり感。





そして巻頭の野村さんの歌。

「晩鐘」のシーンのような。働き通した手の年輪は

うつくしく、強い。

漁師をしながら画道を極め続けた木田金次郎の手もこうだったろうか。

そして彼ならどういう風にこの手を描くだろうか。

2010年10月4日月曜日

歌のリアルと虚構

私の住んでいる札幌にある大通公園には前出の石川啄木の歌碑がある。


しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ


結構前に芭蕉の「佐渡に横たふ・・・」の句の実際を聞いて以来、

��常に荒れてる佐渡の海に天の川が映るわけはない)虚構であるからこそ

完成される世界というものもあるということを知ったのだが、この歌碑を見たとき私が気になったのは

「啄木は実際焼きとうきびとか食べたのか?」

ということだった。

歌以前にこんなしょうもないことのみに興味が湧く私w、疑問の赴くままちょこっと調べてみた。

どうやら明治中頃、札幌市平岸村(現在の私が住んでいる地域だ!)の農家がとうきびを焼いて街角で売り始めたのが始まりという。

地元に住んでいたけど歴史は古かったのねーと妙に関心。

ちょうど啄木が滞在していたときにはもう街のあちこちでとうきび屋台があったそうだから

まさにこの歌の通りの光景だったことだろう。

でも実際食べたのかどうかはさだかではない。街を歩きながら匂いだけを楽しんでいた(お金ないし)のかもしれないし

買ったのかもしれないし、焼いたのじゃなくゆでたのだったのかもしれないし、こんな妄想で秋の夜長を楽しむのも面白い。

秋、ということはとうきびもラストシーズン。過ぎ行く季節の哀愁と共に立ち上る焼きとうきびの煙が

思い浮かんでくる。

個人的には大の男が蟹と戯れて泣いたり、己のダメさ加減にじっと手を見る歌よりは好きだ。


しかしこれジャンル分け「もの想い」でいいのか・・・。

JAZZ like old clothes

英語でチャットをする時、決して流暢じゃないのでウェブ翻訳も駆使しながらやったりするのだけど

ただ、サイトによっては妙な訳も結構あるので訳したものを更に訳するとか、使い分けをしたりしている。

もっぱら最近はグーグルとエキサイトを併用中。


歌をほっておいてた(?)この歳月何をしていたかと思えば、YOUTUBE三昧の日々でした。

働きづめだった脳を一度ストップさせて、メロディという風を送り込んでいた訳です。

詳しくなるときっとつまらないので単純に楽しむようにしているJAZZなどは、私の好きな

古めかしい感じのものが多々あるので嬉しい限り。

なんというか、飲まなくてもすむけど飲むと安心する「水」のような存在のJAZZ。





昔のエディ・パルミエリ。ラテンっていいなあ。




そしてデューク・エイセス。これを見るまでこういうジャンルを歌っていたのか!と
驚愕でした。そしてかっこいい!!




ハリー・ベラフォンテとナット・キング・コールの共演というある意味レアな動画。
二人の歌う姿がえらくチャーミングです。



こちらは比較的最近。踊りだしたくなる音。彼はまだ20代ではないかしら。

こういう音を聴くと、定型を抜け出しつつしかし定型でもあるという五行歌も

もっと遊べる部分を探せるべきじゃないかなとか(もちろん自身に対しての事)

思いを馳せたりする。

言葉の自由さと不自由さ。もっと切実に真摯に摩擦させていかなくては。

そして、遊ぶように息をして、かたちにするのが理想形だ。

2010年10月3日日曜日

手を止めてもの思う

現在2004年度からの作品をwordに入力しているのだけど、2005年12月あたりで小休止中。

この頃はたしか・・・恋愛ごとも事件もなかったが生活だけは切迫していたという

なんとも無味な時期だったような気がする。

だからなんとなく歌も無味で(それは今もか)それに対してしみじみするたび

キーボードの手も止まるという・・・。古いアルバム整理して見入って時間が経つのと同じですね。

なんだろう、平穏な暮らしに憧れて、つい最近までゆるゆる暮らせてはいたけども

それまでいかにおざなりに日々を過ごしていたかが、穏やかな時間の中だからこそ

浮き彫りにされてきた感がある。

そこから少しずつ、「取り戻せないものもあるんだなあ」と自分を納得させていって。

そこから前出の日記に繋がるわけですが。



新たな感情で空虚と向き合うこの時間も、いつか意味あるように熟していくのだろうか。


話は変わって、久々に啄木の歌など見たんですが、あの友人たちが偉く思えて妻に花を買う歌を結構勘違いして覚えてて

ちょっと申し訳なく思ったり。

あれは妻に花を買うという行為で自分の遊興ゆえの貧困の償いをしているのかと思いきや、

奥さんも自分で花を買ってきたりしていたそうで、綺麗なチューリップやフリージアに夫婦して

救いを求めていた部分もあったのだなあと思った。

誤魔化しだけじゃない気持ちもあったのだろうなあ、すまん啄木。

でも誤魔化し7割ほど強く感じるのはわたしだけだろうか・・・w

この人の作品の突っ込みどころの多さはそれだけ普遍的な人の感情の矛盾性と

繋がる部分もあるから今もって愛読されているのだなあと綺麗に終わってみる。

2010年10月2日土曜日

空白という選択肢

今の今まで、やっきになって自分の中の欠けている部分や

持っていないものの空白を代替品で埋めようとしてきたけど

何も埋めない、という選択肢もあるのだなと気付く。

で、その空白を

安易に寂しさとか悲しさという表現で落ち着かせたくないなとも思う。


いたい、つらいの歌はもう書ききったなんて言えないけど。

そういうもの一切抜きで書くことにすべてを委ねられれば最高なのだけど。

2010年9月30日木曜日

萌え拗音

絶対音感を持つ人が感じる好きな単音のように、なんだかこの発音を聞くと

うひゃ、とくすぐったくなる心地がする音がある。

いわゆる開拗音が好きなのだけど、特によがっちゃうほど弱いのは「しゅ」と「ちゅ」
��ああ、もう打っただけでなんかうっとりだ)

アカペラのコーラスなんかこの連続音のオンパレードなので

しゅびどぅわーとか言われた日にはもう、結構ナチュラルハイ状態になる。

擬音系はよく歌作でも使うけど、案外この2音は使ったことがない。

今度意識して使って作ってみようかな、シチュエーションが限られそうな感じもするけど・・・w

記紀以前の口述の時代での歌の有様になんとなく前から興味はあり、

それの派生でヨミガタリとかへの関心にも繋がるのだけど

語る、という前提で歌作を意識してみるというのもまた違った発見があるのではないかしらと

思ったりする。

ある意味紙の上とか机上とか、飛び越えていく意識でなくては、とも。



左下のリンク先に、もっぱらライフワークな五行歌のサイトを追加してます。

ご興味ある方はどうぞ。

向こうでもこちらのブログが追加されたようなので覗きに来て下さっている方もいるかもですねえ。

2010年9月28日火曜日

電話恐怖症解消の工夫

未だに電話の音にびくっとする。

昔の金融業者の取立てはそれはもう電話攻勢の嵐だったので

幼少のそれがまだトラウマです。

なので携帯も着信があるだけで慌てふためいてしまう。

電話の音からかけ離れた着信音で、それでいてうるさくなく、雅やかな(贅沢なw)

あれこれ試行錯誤して行き着いたのはクラシック音楽だった。


只今の携帯の着信メロディは「フィガロの結婚 序曲」

オペラが始まる前のソワレの雰囲気や開演のときめきを

聞くたびいつも感じるのです。しみじみ聞き入ります。

なので鳴ってから出るのはやや遅いというw




この1音で救われるとか、この一言が己の糧になるとか

瞬間を追い求める生き方は素敵だ。




取り戻せぬまま
渇くがまま
この生を
燃やしていく事に
決めたの



ここ最近思うのは、自らが望む生き方と、望まざるともそうならざるを得ない生き方のぶれは

どうしようもないのだなということ。

そして諦観のまま生きていくのは実に退屈だなということ。

2010年9月27日月曜日

どうもどうも

Mixi日記と連動完了。コピペ三昧の日々でしたよ・・・。

とりあえず久々に作品を投稿したのでこれもよし。

やはりキーボードを動かしていかないと脳も働かない。

で、これからすることといえば・・・

五行歌の表現別アプローチとしてのヨミガタリ、かねてから語りたそうにしていたw方が

おられまして。お願いしてみようかと。

あの、自分の呼吸や組み立て、果ては芯の部分が

あれもこれも、だめだめさも剥き出しになるという恐ろしさ(そして快感w)

自分がしばらく放っておいた感性部分の再確認もそうですが

これを読んだ演者自身がどう変化していくのかというのが興味あります。

自分を見つめると同時に観察するのも好きなのです。

シチュエーションが演者さん自身の生活圏にあわせた部分もあるので

これ、単なるパフォーミングアートじゃなくて演劇的空間にしても面白いかもとか

いっそ演者さんの土俵の人形を登場させるとか

それで掛け合いしつつヨミガタってもらうとかw(いっこく堂みたいだな)

でもそれだったら演者さんには素になっていただかないと難しいかなとか色々考えは巡ります。

わたしの紡ぐ言葉自体は「素」でないと表現できない部分もあるので、臆することなくさらけ出す、

さらけ出していただかねば、とも思っています。

2010年9月23日木曜日

想いと対象の距離感

2006年09月13日12:35

うたう側の想いと対象の距離感によって
表現される歌の面白さが変わってくるなぁと
何気に思った。



近いものを敢えて遠くに、またはその逆を。



作者の目線や奥行きは
読み手にも投影される訳なので
その距離感の妙で受ける印象も変わってくる。



ここから・・・さりげない生活歌にも斬新さや意外性を含ませた
表現へと発展出来る。



言葉を凝らした技巧で、それなりの状況は作れるとしても



根本は、もっと感覚的なものかもしれない。
好きだから、肌に合うから、懐かしいから、和らぐから・・・



近付きすぎるほどの息詰まり、圧迫感、愛おしさ、
皮膚や呼吸の質感、見えないはずの互いの痛み



遠いからこその憧れ、太陽や月、
それが作り出す己が影のはかなさ。(この影まで描く人はあまりいないけど)



推し量る間合いは大切な気がする。
もちろん自分の心とも。

吐露の戸惑い

2006年09月14日10:13


想いを表現する、ということに
一定の年代の方々は躊躇、足踏みしがちな部分があるなぁと
歌会を通して知った。



自らの想いを吐露することへの恐れ、恥じらい
そういう風に育てられた世代というのもあるのでしょうが(個人差はありますが)
慎み深さの隙間から滲むものもあると思うので
無理にぶっちゃける(笑)必要もないのではないかと。



そこまでの過程を経ていくペースは人それぞれだし



心身に
ゆとりある人の
呼吸に
合わせる
ここちよさ

休符、のような一行

2006年09月20日22:59

展開とか繋ぎとかもありますが
詠む自分自身、一息つける意味で
遊びの一行を作る時がある。大体助詞、接続詞含みですが。



一息ついて、次の行間で静かに息を吸う。



助走するがためのとってつけた空白。
ホントは助走もいらずフワリと飛べたらいいのだけど。



切り返しとして「だって」「でも」「しかし」が
使えるというだけでほっとする。
現実世界では言い訳にしかならない言葉が
歌に置くことで癒される。



私にとってはやはり、生きるより楽です、歌は。

偶然の不思議

2006年09月24日10:36


私の名前は詩乃ですが、様々な当て字の中で選ばれた
「詩」という文字。



で、シノ、はアイヌ語で「歌」を意味する。



ある意味不思議な偶然です。

思うのは

2006年09月29日21:05


最初の頃書いた歌のように
わたしはまだ、わたしだけの一本を求めて
途方もない数の線を引き続けてるのだろうか。



その積み重ねた線上に、すでにわたしは在るんだろうか。



途切れながら、時に濃く淡くゆるやかに、紆余曲折しつつ



ボールペンのざりざりした筆圧を重ねながら



造られた「まっすぐ」になんてなりたくないなとも思う。



そんな問いを繰り返しながら
暮らして歌ってます。



誉められ過ぎることは、恥じていきたい。

それでなければならない一片

2006年10月07日22:28



ジグソーパズルの、途中で見失ったピース。



その形でなければならないもの。
これから新しい出会いで埋めてけばいいよ
と言えるもんでもないもの。



そんな空白がこれからいくつ増えていくんだろう。



まずはご飯を炊いてから、ちょっと泣く。

プライドという名の獣~ヨミガタリ「山月記」を聴いて

2006年10月28日23:23


歌を作る身としてしみじみ考えさせられた。
詩作の才の自信、自らに対するプライド
なのに優れた自身を理解してくれようとしない社会との
葛藤に引き裂かれて、あらゆる驕慢や驕りを具現したかのように
虎と化した李徴を、一歩引いた目線で眺めていた。



けど私だって、李徴のようにならないとは言えないかもしれない。



五行歌は誰でも書けるんですと言いながら
誰もがひそかに心の草むらに潜む虎を
飼い馴らしているはずだ。



ささやかな自尊心を満たすため、そして
自身が虎にならぬために。



インテリの自嘲って嫌いなんですが
李徴のそれは気弱を見せぬ虚勢なんですね。
その複雑さが物語に深さを与えてるのかもしれない。
単純に「物知りおバカさん」であったなら獣にまではならなかったかも。

夜明けの蒼の寂しさよ

2006年11月02日21:02



早朝の街並みなどはこんな感じですね、真冬ならなお。



昔書いた歌で


磨かれて
玉となるか
石よ
彫られて
仏となるか


というのがあった。
今思うのは、このどちらも選択せずに
現在があるのだなという事。



そこそこの風雨にさらされて、その時々のかたちになるのが
道理というのか真理というか。



出来上がりを想定して、何かをつくるのはセオリーですが



突き詰めればそれはすごーく不毛。
気がつけば完成度のみ追求している。
つくる喜びからはだんだん逸れてゆく。



そう思うと、ある意味成り行き任せな我が性質を愛おしく感じます(笑)


想いも皮膚も更新していこう。
いいものをつくろうと思う以前に。

即詠

2006年11月05日21:57




sokuei.jpg
脱ぎきった
骨を
透かして
大樹は
空に凪ぐばかり



即詠会って実はこちらではやったことない・・・。
外をふらふらして歌を詠むほど時間が取れない
��暇でない)人ばかりという理由もありますが。



何と言うか「歌」を目的にしちゃう時点で楽しくないというか。



「なりゆき任せ」は「継続は力なり」と同じくらい好きな言葉です。



ぐたぐたな私の頭上にも等しく季節は巡り来る。
自然はやはり偉大だ。

ボトルメールの心境

2006年11月08日11:00


歌を発する時、そんな感情がよく湧く。



確信を持ってかたちにする気持ちは揺るがなくとも



それを波間に任せた時のような心許なさ。



この歌も、最後には私に戻ってくるボトルメールなのかもしれない。



それが開封されないままだったら
少し寂しいけど。



誰かの目に触れた、という事実がときには欲しい。

不毛とは思いたくない

2006年12月05日23:14


恋愛、結婚から飛んで「子供つくんなさいよ」と
「年齢的にもまだまだいける」と
多方面から勧められているこの頃だ。



昨日友人と夜のカフェで延々そんな話になりましたよ。
でも内面的にも現実的にもクリアせねばならぬ事だらけの
今の私には、まだ無理。
そして「血縁」そのものへの負の葛藤が
なかなかぬぐえない。もうこれは一生向き合っていくしかないのだけど。

まともな家庭環境でないからこそ「学習」が出来るのよと
今日、ある方から言われて、そうかぁと思った。



温もりからは遠かった子供時代を送ったその方は
サラリーマン家庭の友達のお家で
ご飯をご馳走になるのが好きだったという。
そこでいろいろ観察してたり。実感的にワカル。
よそのお家の食卓ってあったかいのよねー。



そもそも学習する自体が違うのだろうけど
わからないなりに精一杯前向きでいたいよな
とも思う。

情事歌習作

2007年02月09日12:18



あぁ…なんか類型だな(汗)。
しかし官能というスタンスじゃーないのよねー。
やはりどこかはリアルでありたい。
だからこそ陳腐と洗練のバランスがむつかしいのかも。反省。


わたしの殻を
破りたがってる
彼の乞うままに
眼鏡を
はずす


潤んでいる
素の眼を
もういい、と
諭すように閉ざされて
あまいにおい


真冬日
静かな街の一角で
したたる
互いのいのちを
分け合って


あなたの
優しさをなぞるしか
出来ない
それが
せつないのだけど


カーテンの隙間から
雪明かり
昼さなかの
情事すら
すずやかに


窓の外
また積もりそうだなと
垣間見ながら
いよいよ
熱く辿られて


建前や
本音より
身体が
呼び合っていた
今 こんなにも


ほぐれて
傍らに添うわたしに
何故
そんなにも
うれしそう


降ってるなぁ
降ってますねぇ
雪の中
たゆたう小舟の
行く末を想う

気付いたこと(やや愚痴)

2007年02月24日08:53



今現在の仕事は清掃ですが、男性から見れば
賤業につく女性という部分が、やはり爪の先くらいでも
そんなイメージになるんだなぁと思った。


着物を着て一見そうは見えない?からこそ
よくわからない人間に思えるのかもしれない。



最初からイラストやデザインを生業とする人は
実務的なことは本当にこなすのが難儀なので
いかんせん軽作業系しか出来ない。かつての陶芸教室の先生も副職はトラック運転手だし。


親や身内のことがあったからこそ今の職業を選んだ訳だし
少しずつクリアしてって自分のためのひそかな楽しみを(着物ね)
満喫して「いまいち分かりづらいんだよな~」と言われる筋合いはないのだ。


イラストレーターをしていた時にたまに見られた
「不安定な仕事してるなぁ」という目。
清掃をしていて暗に「汚い仕事で大変ね」と言うまなざし。

同じなのだふたつとも。



基本的に自分をわかってほしい人には
仕事や趣味をあれこれ語る。

そこで大抵の男性は淘汰され(笑)
思慮深い、友人だけが残っていて。



なので



それでもういいのだと思った。
友達に恵まれているだけで充分だと。
今までを思えば。

金色の楔みたいな言葉

2007年03月10日15:37


「目に見える形にしてしまった以上は、如何なる言い訳も出来ない」


今もなお真理として、私に打ち込まれている楔。

表現てそういうもの。
しかしその逆ばかりが多いかもしれません。
歌会が社内コンペみたいのってどうだろか。

今日は卒業式なんですね

2007年03月14日11:57


袴姿のお嬢さんが多い昼時です。



ちなみに私、高校の卒業式は出ていません。
てか出れませんでした、出席日数足りずに(笑)
補習してましたよ。



一緒に受けていた同級生に「なんでここで一緒に補習受けてんの?」と言われました。
見た感じだけ優等生でしたから。



ふっと息抜きのため(物も言い様です)早退したり
よくやっていたもので、何の悪さをするでもないので
そこは担任にも不思議がられました。


後半肺炎で入院したりで日数的にアウトでしたが
第一期卒業生ということで、外聞も悪いからまぁ補習でいいだろと
グダグダさに救われた形になりました。



今現在の、学校の息苦しさとはまた違うのだろうけど
気持ちは少しだけわかります。


自分なりの安全弁の緩め方は独学で覚えていくものだけど
その学び方すらわからない子たちが多いかもしれませんね、今の時代は。

これから

2007年03月14日23:01


ていねいに暮らそう
たとえ
それがひとりで
紡ぐしかない
ささやかさとしても



そういう覚悟を決めなくてはいけない時期かしらと
なんとなく思った。

無尽燈を灯す道

2007年04月04日22:51


色んな意味での自分との闘いから生み出されたものの


鋼のような輝き。


でもそれが目的だったからというより


やむにやまれぬ事情や、どうにもならない衝動で
結果打たれて磨かれていた・・・という。



その事実に奮い立たせられて「明日があるんだ」と
希望に燃える時もあれば
この先ずっと要領の悪い人生を歩いていくのかなと
変に落ち込む時もある。
涼しい顔して振り幅が凄く激しいのです。


タロットカードに「隠者」という札がありますが、
見るたびにしみじみします。
真理の森の奥深く、孤高の道を無尽燈をかかげて
歩く隠者の姿。
女の身でこの生き方は、覚悟がいるよなあと。
で、我が身を振り返ります。


寂しさの灯は尽きないものです。

悪循環の効用

2007年07月07日15:40



失恋する→生活乱れるほど落ち込む→やけくそで働く
→親から金の無心→超ストレス→恋愛に逃げる→
そんな自分に自己嫌悪→結局失恋する…のエンドレスだった20代の頃でごわした。

落ち込みを少しずつこぼして立ち直る、という術を
最近覚えた(遅い?)ので楽になりましたよ。


感情の起伏に左右されるので歌を書く点では
優等生ではない私。
しかし書くことを人生に近付けたい欲求には素直でありたい。
不器用なりにも丁寧に日々と向き合える自分を
肯定できる表現としての五行歌。

そういう本質から先に判れば歌うことで悩むこともないはずだ。

サッポロ・シティ・ジャズ感想など

2007年08月07日00:33


やや出遅れた友人を待ちながら野外ステージへと開場と同時に目指しました。
そこでヨミガタリなどでよくお会いするKさんと偶然出会う。
これだけの人数で知り合いに出会える自体がスゴいことですよ!
お弁当をたくさん作りすぎたので「よかったらお裾分け・・・」と
いう間もなく売店に消えてしまったKさん(笑)
美味しい物に出会えたでしょうか?

オープニング、SUITE VOICEときて東京ブラススタイルの時に
友人登場。彼女のもうひとつの目的モディリアーニ展を
これから見に行く!との事なので
持参してくれたおにぎりとともに
鶏ハム、茄子とじゃがいものマリネ、スィートトマト(ロビンソンで半額だった笑)をいただく。
鶏ハムかなり好評。「マリーンの出番までには戻ってくるねっ」と出かけていきました。
以下箇条書きですが・・・。

☆遠目から見てもマリーンのナイスバディは目についた(どこ見てんだ)。
☆巧いボーカルのジャズはやはり安心して聴ける。歌い手の色の出し方がよく見えるスタンダードな音がやっぱり好きかも。
☆大黒摩季 with TOKU  プレイヤーとボーカルを兼ねられる人って
そんなに多くないものなんでしょうか?(その辺疎いんです)
でもあのスィートボイスはラッパ吹くだけではもったいないねと
友人と語り合う。
☆大黒摩季、すごくいい感じだったので最後が微妙に惜しい(まさか「ら・ら・ら」歌わせられるとは思わなかったよ・・・。)
☆エディ・バルミエリ/ブライアン・リンチジャズ・カルテット
一番凄かったっす。怒濤の音の嵐。ラテンジャズってこんなに
かっこ良かったのか!と非常にお腹いっぱいになりました。
☆上原ひろみ
MCでは実年齢よりすれていない感じがしていて普通の女の子っぽかったんですが
やはりピアノを前にすると全く違って、骨太だけど澄んだ音、
マイナスイオンが出ていたのは周囲の樹々だけではなかったはず。
あのステージの空気に一番しっくりきていたと思う。

実は最後まで見れませんでした。バスの最終が閉演時間より早いっていうのはどうか?
余韻を背に帰って参りました。
外でごろ寝でジャズってなかなかいいですね。
来年も行こうという話になりました。
おかずの量配分をしとかないと。今回出店もかなり豊富でしたし。
来年もエノテカ出店するならば次回絶対シャンパンは頼むぞ!

スポーツと人生への向き合い方って

2007年11月02日21:07


同じですねえ。

負けても明日は続くということの

しんどさ、せつなさ、楽しさを、

スポーツ観戦から教えてもらっているようなものなので

終わった結果にどうこうも言いません。

応援している自分たちが一番悔しい、んなワケはない。

わたしが「熱狂的に」なれないのは

そういう驕りとは違う場所で楽しみたいから。

今まで生きて来て味わった様々な事を思えば

こうしてビール片手にテレビ観戦できる事だけでありがたいのだから。

なので、楽しみますよ。ゆるファンの立場で。

そして、受け止めますよ。親心で。

「やめろ」「いらない」と言うは容易いけど

私たちの北海道日本ハムファイターズにいる限り

誰一人いらない「子」なんていないのだ。

メモ1

2009年01月22日13:48


床の間に置いてある豪奢な鎧は

かつていた持ち主が身につけていないなら

やはり飾りは飾りの骨董品なのだなあと。

そこに魂があっての美しさなら。見に纏い戦に出てこそ輝くなら。



歌に対しての感想を聞かれて
あたりさわりのない事を言わざるを得ない時
そういうことを考えてしまう訳です。


歌だけじゃなく相談事にせよ、それに対しての原因や本質について
「私はこう思うけどどうなのかなあ」とは言いますが
ただ、それを言った事によって、言われた方の根源的なトラウマに
突き刺さるとかそういうショックも多々あったり。
だからこそ何に対しても言われた事に対して自己弁護が習慣になっていて、
「でも仕方ないの、私ってそうなのよ」と言われた日には話し合いにすらならないのですね。
こういう返り討ちが一番きついですね。

でもそういう人は、きちんと周囲に「こんな自分を許してくれる人たち」を
集めているので、いつまでたっても変わらない。
許してくれる=受け入れるではないのですが。

歌メモ

2009年01月28日03:21


世界が狭い

じゃあ、深いのか

と言われればそうでもなく。



そのときだけ、うたうと言う形だけで猛省しても変わらないのは
うたうという形では他人は肯定しかできないからだ。
ありがたいけどいいのか

それでいいのか。

とこしえの春~阿島智香子様へ~

2009年02月13日22:06


歌そのものもそうだけど、全国歌会での作品に対しての怜悧なコメントが一番印象的でした。
歌質か近いわけでもなくあまり接する時間も機会もなかった割には
なんとなく親近感を感じてはいたり(ああ、チャット歌会とか歌誌の作品欄が隣だったりが割と多かったからか?)。

これから会う機会がなくなったのは寂しいが、
歌は残る。

歌を見るたびそこにいる。
そして春になったとき
咲く桜を見るたびにも。
そういう意味ではずっと、永遠の生を得られたのだと思う。

そして志半ばであろう人に
簡単にさようならは言えない。
死なない思いを残していただけたことに只々感謝。


欄がなくなったとしても
私の中ではずっとマイミク。

しかし
亡くなられた時と同じ年になったとき、
私はどれだけのものを残せるだろうかね。

こなれすぎた言葉の始末

2009年05月13日11:46


たびたび使う決め台詞的な言葉は、着古した服に似ている。

自分のこれまでを凝縮されたかたちでもある象徴。

着ては洗いを繰り返した愛着ある言葉。

擦り切れていても着るひともいるし

見る人によっては鎧にも見えたりそれぞれだけど


気がつけば纏っている言葉は何だろう。

着すぎて擦り切れてることに気づけてるか。

何故そこまで着るのだろうか。

愛着だろうか。

依存だろうか。




変わらずにいたい、なんて普通に世にまみれて生きてるうちはむりむり。
着古した数=芯だという付加価値をつけて自分の更新を怠りたくない。
少なくとも自分の箪笥だけはそうしたい。
「芯」って具体的に見えるうちはあざといし。
遅くも気づいた。でも気づいてよかった。

2010年9月22日水曜日

歌会、という響きの閉鎖性

2006年07月22日14:57


本誌ではお目にかかるけど歌会には来られてない方もおられる。



持病があるとか休みが合わないとか様々な理由の中に



そういう集いの閉鎖性みたいなものを
感じている人もおられるのかもしれない。



自分で楽しんでいる方が気楽だし、
そういう場所であれこれ批評しあったりするのもウザイ。
とかく縛られないのが北海道気質。



実際私も、こうやって最初の段階で歌会発会に関わらなかったら
こういうスタンスで書き続けていると思う。
従来の結社的どろどろ感を想像して。



そういう意味でも詩や短歌などでもしがらみに囚われずに、
��ネットとかで)活動している人の感性はクリアーだ。



こちらだったら、そよ香さんやあやさんがおられるが
そういう方達と触れ合える、というのが
歌会とは別の楽しさもある。



歌について語るのもだけどお茶とケーキでおしゃべりもしたい
それだって歌会に来る理由になる。



人に触れてこそ開けるものもある事を伝えたいなと思う。

内なる寝床にもぐりこむ

2006年07月25日21:58


仕事中にも関わらず、ホウキを動かしながら
「うつくしい」生き方ってなんだろ、と思索する。



所謂品行方正な姿勢を言うのなら違うだろう。
想いに違わず、信じる道を行く事だろうか。
うつくしさの観点は人それぞれだから様々な向き合い方があるだろうし。



私はどちらかと言えば・・・上記みたいな生き方はたぶん出来ない。



時には浅はかなな知恵を働かせて転びながら立ち回る方が
生きていて楽しい気がする(楽という意味ではなく)。



少なくとも、今まで流してきた汗と涙(時々、血)は
私自身を裏切らなかったし
これからも多分そうだし、そうありたいと思う。
この真理だけは輝いている、



と思ったところで仕事も終わり、
スタバでゆっくりしながら腑に落ちる。



私がわたしへと還る瞬間は寝床の安心感に似ている。



明日を生き抜く為、今日を眠ろう。



Good Night

時たまの叙景歌

2006年07月30日22:57



なんとなく思うのは



叙景歌をつくる時、その時見た山やせせらぎ
草の匂い、風のそよぎに言わば「手を貸してもらって」
歌になるような気がする。



私が楽器だとしたら、
自らの想いとなけなしの技術で歌を歌うが、
この場合は、外から感じた五感が内を通って指となり
風なら風の、山なら山の響きを奏でてくれるのだ。



抗わず、委ねて見えてくるもの。



こうした気付きは自然の中だけでなく
普段の雑多なくらしの中でもある。
もちろん恋のさなかでも。



それをわかりやすい形でドーンと提示してくれるのが
大いなる自然なのだろうか。



山の頂から望む、広大さ深遠さ、引っくるめたすべては
切なさにも似た感情だ。
それすらも抱ける気にさせてくれるのも
私もまた自然の一部だからなのか。



時たま書く叙景歌は、だから楽しく意義深い。

それぞれな姿勢でいいだろ

2006年08月31日09:52



スタンダードに内面から湧き出るものを見つめるのとは
また別にして



身の回りのことあれこれを日々を綴るように
ポンポンと五行で置いていく。



ディテールで遊ぶ、手芸や工芸の
「今度はこんなの作ってみたいなぁ」な
ワクワク感もいいと思う。



様はそのできたものを
作者自身がどう見つめられるかなだけで



「この時の私の心境はこうなんだ」
「何か足りない気がするのは気持ちかな言葉かな」



教える立場なら芯がどーとかより先に
そんな風に考えさせるのが大事なんじゃないの?と思う。



そしてそこから「色々書いたけど私の歌いたい事は何だろう」
と、そこまで考えさせる階段を根気よく用意するだけの話だ



友達が難儀している様子を思うにつけ考え込んでしまう。
私だって気がつけば頭ごなしに歌を語ってるかも知れないし。



ともあれやっていて楽しくなければ
やめていいよね。



難しく教えてもらわなくとも書けるのが
五行歌なのだから。

今月の本誌

2006年09月04日22:31


秀歌集はまだまだ見るのは先なので今月号の本誌から



中邨さんのブルドック歌。



くぅーっ(泣)。
私にお金と時間と犬の飼える部屋があれば~。



野田凛さんの雑踏の歌。
これを見て思い出したのが東京の人の波。
歩いて肩をぶつけようが、皆謝らない。



確かに心も枯れてゆくだろうな、と思った。

ただただ想いの奥へ

2006年09月05日12:08


食後にタリーズコーヒーにて。
タリーズに行くときはなぜか雨の日ばかりだ。



河井寛次郎「火の誓い」を読みながら考える。


想いを開かせると同時に
言葉の中へ深く深く隠れてしまえたらと思う。
生身の自らが一々語る必要も無いように。



言葉のマテリアル、形状の連鎖がいざなう永遠
��最近ようやくフラクタルの原理を理解できましたよ>薔子さん
やはり私の頭には図形で示してくれた方がわかりやすい)



ただそれだけじゃ足りない。
そしてどこまでも無意識に伝わるものでありたい。



ふと、改めて
何かがすーっと立ったような
そんな気分。

えぐるように

2006年09月06日12:26


土門拳の「風貌」を見ながら。



これはファインダーの向こうが対象だけど



これくらい容赦なく表現をしてみたいものです。



短気じゃないんですが、理屈だけ先に立つとか
口が動く割には身体が重いとか目の当たりにすると
自然と本能のこぶしが疼く(やけにカッコイイな)のです。



でもそれより、この手で私自身を磨けば済むこと。
この積み重ねにまさる強さなんてない事。



うむ、と改めて確信。

2010年9月21日火曜日

詩歌とコピーの境界線

2006年01月25日12:31


友達がいまして、コピーライターを生業としていますが
短歌をライフワークにしているのですが



彼女いわく「コピーライターという仕事柄らしい・・・と歌を評されるのが不思議だ」と。



その評のニュアンスが、コピーを若干軽く見ている感じがあって
それが我慢ならないという。



彼女にとって詩歌もコピーも、言葉を使って表現するスタンスは同じなんである。



ある意味身を削って、言葉と向き合っている彼女からすれば
詩歌とか文学とかの概念での境界線は、無意味なのだと思う。
寧ろそういう区分けこそ嘘くさいと。



これに関しては私ももっとじっくり考えてみたい。



今日も頭脳労働に明け暮れている彼女に
久々にメールしてみよう。

一冊から全てを知る

2006年01月28日19:54


クラスにも居場所がなくいつも通っていた図書室で
最初に読み始めた近代文学が芥川竜之介で小学校5年頃である。



思えば小学生の頭でも、実にストーリー展開が追いやすかった。
読ませるテクニックの上手さなのかな。



しかしその小説に秘められた滋味や不毛感、哀しみや批判精神を理解できたのは、
後に数年おきに読み返したりしてからだ。



個人的に好きなのは「歯車」「蜜柑」「奉教人の死」「在る阿呆の一生」



現代の小説は、実は一切読みません。



そこに真理が凝縮されているような、濃い一冊を飽きもせず読んでいたい方です。



読め読めというより、漫画でもいいからそういう本を探す手伝いをするほうが
読書離れな子供も減る気もしますが。



私は「つる姫じゃ~!」と「大甲子園」から教わりましたよ、人生を(笑)




人生は落丁の多い本に似ている



芥川の言葉です。そしてその欠落した部分を埋めるのも本なのかも。

よい子ちゃんからの脱皮

2006年02月02日11:33


「僕はどうも合わないなぁ」と歌を書いていた知人(男性)が
ある歌をいくつか挙げた。



その時二人で見ていたのは五行歌誌。



その歌は姿勢正しく、美しい心のありようを語っていたが、そこが物足りないらしい。



でもまぁ、思いの上澄みを歌うことが作者にとっての完成形なのかもよ、と言うと



「きれいでもその世界観が狭いのが気になる」



あぁ、なるほど。



テクニックだけで表現できる広さがあっても
それは字面だけ「広い」と書かれていて、あー広いんだなと漠然と思うだけに留まるにすぎない。



普段の価値観の奥行き広さが、スケールの広さか大風呂敷かの境目を決めている気がする。



「思い切って自分の世界を広げてみるとかの発想がないのかもしれない」



例えば?



「駆け落ちとか家出とか」



・・・(ややウケタ笑)でもそれって本人が何かをきっかけに
意識しないと変わらないよね。



「ある意味与えられた環境で満足しているから、余程の事がない限り
自らの枠を拡げようとは考えてないと思うよ。」



多分彼自身の好き嫌いも激しく関与してますが
なんとなく納得。



もちろん作者だって自分の歌に満足なんてしている訳はないでしょうが、



そう考えられるかどうかなのかなぁ。



30過ぎてから「私変わらなきゃ!」「本当の自分て何だろう?」は



遅いがな!と思いますが



手遅れという意味でなし、経てきた年齢と経験で凝り固まり始めた分
葛藤が激しいよっていう意味です。



でも、それを越えていって脱皮していたひとも沢山いますし。



失うことを畏れなければ、ずーっと先に得るものもある。



目先の痛さを堪えてまずは、脱いでみたらば?



そこで取り巻く温もりや、剥き身な自らの脆さを知るはず。



その服をまた着るか、どうかは自分次第で。

あなたにとって歌とは

2006年02月05日17:41


こういう質問を度々受けます。



端的に答えれば



時折つく溜息だったり、怒りの鼻息だったり
自分の心を見据えた時の無呼吸状態であったり



どれも、私の心を「少しだけ」風通しをよくしてくれます。



少しだけ、という部分を重ねてもうじき10年になります。



飽きない限りこのままいくでしょう。



救う救われるなんて結果論だ
権威なんて嫌いだよーだ



の精神でぼちぼち行きます。

揺れながらも探す

2006年02月14日22:22


余っている食材で、簡単鍋。
豆腐、ネギ、鳥肉、白菜をダシ汁のみで煮て
味ポンににんにくのすったのを入れて食すのです。



卓上コンロなんてないので、ガス台の前で立ちっぱなしですが。



だからという訳ではないが



これからの自らの立ち位置について思う。



フラフラと、このまま美味しいとこ取りでいくのも気楽だ



でもやはり



自分で在れる場所に、多少の風雪に打たれながらも
立ち続ける、というのが一番いいのだ。



貫くことはしんどい事で、でもそのしんどさからしか生の実感は得られなくて、



日々迷いつつ思います。



でもそのフラフラ感も楽しかったり、そんなこんなで
鍋も煮詰まり夜も更けます。
今の、この位置が、私で在る場所なのだとしみじみしつつも。

Mっぽいだろうか?

2006年03月07日12:41



どんな抽象的表現でも、実は確固たる理論の裏付けや
綿密な手法が潜んでいたりするものと思う。



昔授業で絵の模写をしたことがあり、画材技法を想定し、まねっこする事によって
表現する技術、を学ぶというもの。



それらしく真似はできるんです。



でも違うんです。テクニック云々というよりも内から奏でられるものが
圧倒的に違う。それに気付いちゃった。



全然真似できなくて違うものになってしまう方が
まだ救われます。



中途半端に真似出来てしまう事の方が惨めです。



こういった比較追究でたまに頭をかち割られるショックが



自分を活性化したりする部分もありますが、
「もっとぶって!」じゃないけどさ(笑)



五行歌は、あくまで個人の裁量に任せるものであるから
そういうものとはまた違う。



でも



この思いなんて所詮甘ちゃんの妄想だったんだ、と気付かせるきっかけを



結構焦って探しています。多分すぐそこにある事実を。



自分であることを、追求すると同時に、



それを張り倒してどつきまわすような



凌駕するものをも求めてしまう。



なので例えば「この歌は好きじゃない」とある人に言われても、
ニヤニヤと側ににじり寄ってしまうかもしれない(笑)



褒め言葉も積もり過ぎれば毒ですから



逆にその方が歌そのものの全体像を見せてくれるんじゃないかと。

静かなる嵐のごとく

昔からそうだが、私は内面の叫びと形にして表現されるものとのギャップが激しい。



愛すべき可憐なものが好き。



でも壮絶な葛藤を、自分の中では飼っていたい。



今はそのどちらにもリアルな手応えを感じられるから、
そういう意味では満足。精神の均衡を保っていられる。



人に贈るため、
古布のちりめんに花のリボンを縫い付けた小袋を
考えながら、こんな歌も浮かぶ。



誰かのため
なにかのため
今日も
涼しい顔して
血飛沫を浴びる (推敲中)



つくづく私でしかない私である。
静かな嵐の真ん中で、そんな事を考えている。

考えただけで・・・

2006年03月17日21:05


また書評を頼まれてしまった・・・。



四月初が締め切り。
ちなみに本誌投稿は月末。今月の25日から野球開幕。ちなみに当日は代番出勤。四月六日はクラフトカフェ参加。
それの下準備で土日は追われるとして



書評はいつ書けばいいのだろう(笑)



去年は札幌ドームへ向かうシャトルバスの中で書きましたが



これから送られてくる歌集を読んでからですが。



いやー・・・原稿用紙6枚も埋める自信がありませんよ。
熱い要望という話ですが(本当なのか)



まずは読んでみて、そこから何か浮き上がってくれば
それを掬う・・・感じですがどうなるやら。