2010年9月30日木曜日

萌え拗音

絶対音感を持つ人が感じる好きな単音のように、なんだかこの発音を聞くと

うひゃ、とくすぐったくなる心地がする音がある。

いわゆる開拗音が好きなのだけど、特によがっちゃうほど弱いのは「しゅ」と「ちゅ」
��ああ、もう打っただけでなんかうっとりだ)

アカペラのコーラスなんかこの連続音のオンパレードなので

しゅびどぅわーとか言われた日にはもう、結構ナチュラルハイ状態になる。

擬音系はよく歌作でも使うけど、案外この2音は使ったことがない。

今度意識して使って作ってみようかな、シチュエーションが限られそうな感じもするけど・・・w

記紀以前の口述の時代での歌の有様になんとなく前から興味はあり、

それの派生でヨミガタリとかへの関心にも繋がるのだけど

語る、という前提で歌作を意識してみるというのもまた違った発見があるのではないかしらと

思ったりする。

ある意味紙の上とか机上とか、飛び越えていく意識でなくては、とも。



左下のリンク先に、もっぱらライフワークな五行歌のサイトを追加してます。

ご興味ある方はどうぞ。

向こうでもこちらのブログが追加されたようなので覗きに来て下さっている方もいるかもですねえ。

2010年9月28日火曜日

電話恐怖症解消の工夫

未だに電話の音にびくっとする。

昔の金融業者の取立てはそれはもう電話攻勢の嵐だったので

幼少のそれがまだトラウマです。

なので携帯も着信があるだけで慌てふためいてしまう。

電話の音からかけ離れた着信音で、それでいてうるさくなく、雅やかな(贅沢なw)

あれこれ試行錯誤して行き着いたのはクラシック音楽だった。


只今の携帯の着信メロディは「フィガロの結婚 序曲」

オペラが始まる前のソワレの雰囲気や開演のときめきを

聞くたびいつも感じるのです。しみじみ聞き入ります。

なので鳴ってから出るのはやや遅いというw




この1音で救われるとか、この一言が己の糧になるとか

瞬間を追い求める生き方は素敵だ。




取り戻せぬまま
渇くがまま
この生を
燃やしていく事に
決めたの



ここ最近思うのは、自らが望む生き方と、望まざるともそうならざるを得ない生き方のぶれは

どうしようもないのだなということ。

そして諦観のまま生きていくのは実に退屈だなということ。

2010年9月27日月曜日

どうもどうも

Mixi日記と連動完了。コピペ三昧の日々でしたよ・・・。

とりあえず久々に作品を投稿したのでこれもよし。

やはりキーボードを動かしていかないと脳も働かない。

で、これからすることといえば・・・

五行歌の表現別アプローチとしてのヨミガタリ、かねてから語りたそうにしていたw方が

おられまして。お願いしてみようかと。

あの、自分の呼吸や組み立て、果ては芯の部分が

あれもこれも、だめだめさも剥き出しになるという恐ろしさ(そして快感w)

自分がしばらく放っておいた感性部分の再確認もそうですが

これを読んだ演者自身がどう変化していくのかというのが興味あります。

自分を見つめると同時に観察するのも好きなのです。

シチュエーションが演者さん自身の生活圏にあわせた部分もあるので

これ、単なるパフォーミングアートじゃなくて演劇的空間にしても面白いかもとか

いっそ演者さんの土俵の人形を登場させるとか

それで掛け合いしつつヨミガタってもらうとかw(いっこく堂みたいだな)

でもそれだったら演者さんには素になっていただかないと難しいかなとか色々考えは巡ります。

わたしの紡ぐ言葉自体は「素」でないと表現できない部分もあるので、臆することなくさらけ出す、

さらけ出していただかねば、とも思っています。

2010年9月23日木曜日

想いと対象の距離感

2006年09月13日12:35

うたう側の想いと対象の距離感によって
表現される歌の面白さが変わってくるなぁと
何気に思った。



近いものを敢えて遠くに、またはその逆を。



作者の目線や奥行きは
読み手にも投影される訳なので
その距離感の妙で受ける印象も変わってくる。



ここから・・・さりげない生活歌にも斬新さや意外性を含ませた
表現へと発展出来る。



言葉を凝らした技巧で、それなりの状況は作れるとしても



根本は、もっと感覚的なものかもしれない。
好きだから、肌に合うから、懐かしいから、和らぐから・・・



近付きすぎるほどの息詰まり、圧迫感、愛おしさ、
皮膚や呼吸の質感、見えないはずの互いの痛み



遠いからこその憧れ、太陽や月、
それが作り出す己が影のはかなさ。(この影まで描く人はあまりいないけど)



推し量る間合いは大切な気がする。
もちろん自分の心とも。

吐露の戸惑い

2006年09月14日10:13


想いを表現する、ということに
一定の年代の方々は躊躇、足踏みしがちな部分があるなぁと
歌会を通して知った。



自らの想いを吐露することへの恐れ、恥じらい
そういう風に育てられた世代というのもあるのでしょうが(個人差はありますが)
慎み深さの隙間から滲むものもあると思うので
無理にぶっちゃける(笑)必要もないのではないかと。



そこまでの過程を経ていくペースは人それぞれだし



心身に
ゆとりある人の
呼吸に
合わせる
ここちよさ

休符、のような一行

2006年09月20日22:59

展開とか繋ぎとかもありますが
詠む自分自身、一息つける意味で
遊びの一行を作る時がある。大体助詞、接続詞含みですが。



一息ついて、次の行間で静かに息を吸う。



助走するがためのとってつけた空白。
ホントは助走もいらずフワリと飛べたらいいのだけど。



切り返しとして「だって」「でも」「しかし」が
使えるというだけでほっとする。
現実世界では言い訳にしかならない言葉が
歌に置くことで癒される。



私にとってはやはり、生きるより楽です、歌は。

偶然の不思議

2006年09月24日10:36


私の名前は詩乃ですが、様々な当て字の中で選ばれた
「詩」という文字。



で、シノ、はアイヌ語で「歌」を意味する。



ある意味不思議な偶然です。

思うのは

2006年09月29日21:05


最初の頃書いた歌のように
わたしはまだ、わたしだけの一本を求めて
途方もない数の線を引き続けてるのだろうか。



その積み重ねた線上に、すでにわたしは在るんだろうか。



途切れながら、時に濃く淡くゆるやかに、紆余曲折しつつ



ボールペンのざりざりした筆圧を重ねながら



造られた「まっすぐ」になんてなりたくないなとも思う。



そんな問いを繰り返しながら
暮らして歌ってます。



誉められ過ぎることは、恥じていきたい。

それでなければならない一片

2006年10月07日22:28



ジグソーパズルの、途中で見失ったピース。



その形でなければならないもの。
これから新しい出会いで埋めてけばいいよ
と言えるもんでもないもの。



そんな空白がこれからいくつ増えていくんだろう。



まずはご飯を炊いてから、ちょっと泣く。

プライドという名の獣~ヨミガタリ「山月記」を聴いて

2006年10月28日23:23


歌を作る身としてしみじみ考えさせられた。
詩作の才の自信、自らに対するプライド
なのに優れた自身を理解してくれようとしない社会との
葛藤に引き裂かれて、あらゆる驕慢や驕りを具現したかのように
虎と化した李徴を、一歩引いた目線で眺めていた。



けど私だって、李徴のようにならないとは言えないかもしれない。



五行歌は誰でも書けるんですと言いながら
誰もがひそかに心の草むらに潜む虎を
飼い馴らしているはずだ。



ささやかな自尊心を満たすため、そして
自身が虎にならぬために。



インテリの自嘲って嫌いなんですが
李徴のそれは気弱を見せぬ虚勢なんですね。
その複雑さが物語に深さを与えてるのかもしれない。
単純に「物知りおバカさん」であったなら獣にまではならなかったかも。

夜明けの蒼の寂しさよ

2006年11月02日21:02



早朝の街並みなどはこんな感じですね、真冬ならなお。



昔書いた歌で


磨かれて
玉となるか
石よ
彫られて
仏となるか


というのがあった。
今思うのは、このどちらも選択せずに
現在があるのだなという事。



そこそこの風雨にさらされて、その時々のかたちになるのが
道理というのか真理というか。



出来上がりを想定して、何かをつくるのはセオリーですが



突き詰めればそれはすごーく不毛。
気がつけば完成度のみ追求している。
つくる喜びからはだんだん逸れてゆく。



そう思うと、ある意味成り行き任せな我が性質を愛おしく感じます(笑)


想いも皮膚も更新していこう。
いいものをつくろうと思う以前に。

即詠

2006年11月05日21:57




sokuei.jpg
脱ぎきった
骨を
透かして
大樹は
空に凪ぐばかり



即詠会って実はこちらではやったことない・・・。
外をふらふらして歌を詠むほど時間が取れない
��暇でない)人ばかりという理由もありますが。



何と言うか「歌」を目的にしちゃう時点で楽しくないというか。



「なりゆき任せ」は「継続は力なり」と同じくらい好きな言葉です。



ぐたぐたな私の頭上にも等しく季節は巡り来る。
自然はやはり偉大だ。

ボトルメールの心境

2006年11月08日11:00


歌を発する時、そんな感情がよく湧く。



確信を持ってかたちにする気持ちは揺るがなくとも



それを波間に任せた時のような心許なさ。



この歌も、最後には私に戻ってくるボトルメールなのかもしれない。



それが開封されないままだったら
少し寂しいけど。



誰かの目に触れた、という事実がときには欲しい。

不毛とは思いたくない

2006年12月05日23:14


恋愛、結婚から飛んで「子供つくんなさいよ」と
「年齢的にもまだまだいける」と
多方面から勧められているこの頃だ。



昨日友人と夜のカフェで延々そんな話になりましたよ。
でも内面的にも現実的にもクリアせねばならぬ事だらけの
今の私には、まだ無理。
そして「血縁」そのものへの負の葛藤が
なかなかぬぐえない。もうこれは一生向き合っていくしかないのだけど。

まともな家庭環境でないからこそ「学習」が出来るのよと
今日、ある方から言われて、そうかぁと思った。



温もりからは遠かった子供時代を送ったその方は
サラリーマン家庭の友達のお家で
ご飯をご馳走になるのが好きだったという。
そこでいろいろ観察してたり。実感的にワカル。
よそのお家の食卓ってあったかいのよねー。



そもそも学習する自体が違うのだろうけど
わからないなりに精一杯前向きでいたいよな
とも思う。

情事歌習作

2007年02月09日12:18



あぁ…なんか類型だな(汗)。
しかし官能というスタンスじゃーないのよねー。
やはりどこかはリアルでありたい。
だからこそ陳腐と洗練のバランスがむつかしいのかも。反省。


わたしの殻を
破りたがってる
彼の乞うままに
眼鏡を
はずす


潤んでいる
素の眼を
もういい、と
諭すように閉ざされて
あまいにおい


真冬日
静かな街の一角で
したたる
互いのいのちを
分け合って


あなたの
優しさをなぞるしか
出来ない
それが
せつないのだけど


カーテンの隙間から
雪明かり
昼さなかの
情事すら
すずやかに


窓の外
また積もりそうだなと
垣間見ながら
いよいよ
熱く辿られて


建前や
本音より
身体が
呼び合っていた
今 こんなにも


ほぐれて
傍らに添うわたしに
何故
そんなにも
うれしそう


降ってるなぁ
降ってますねぇ
雪の中
たゆたう小舟の
行く末を想う

気付いたこと(やや愚痴)

2007年02月24日08:53



今現在の仕事は清掃ですが、男性から見れば
賤業につく女性という部分が、やはり爪の先くらいでも
そんなイメージになるんだなぁと思った。


着物を着て一見そうは見えない?からこそ
よくわからない人間に思えるのかもしれない。



最初からイラストやデザインを生業とする人は
実務的なことは本当にこなすのが難儀なので
いかんせん軽作業系しか出来ない。かつての陶芸教室の先生も副職はトラック運転手だし。


親や身内のことがあったからこそ今の職業を選んだ訳だし
少しずつクリアしてって自分のためのひそかな楽しみを(着物ね)
満喫して「いまいち分かりづらいんだよな~」と言われる筋合いはないのだ。


イラストレーターをしていた時にたまに見られた
「不安定な仕事してるなぁ」という目。
清掃をしていて暗に「汚い仕事で大変ね」と言うまなざし。

同じなのだふたつとも。



基本的に自分をわかってほしい人には
仕事や趣味をあれこれ語る。

そこで大抵の男性は淘汰され(笑)
思慮深い、友人だけが残っていて。



なので



それでもういいのだと思った。
友達に恵まれているだけで充分だと。
今までを思えば。

金色の楔みたいな言葉

2007年03月10日15:37


「目に見える形にしてしまった以上は、如何なる言い訳も出来ない」


今もなお真理として、私に打ち込まれている楔。

表現てそういうもの。
しかしその逆ばかりが多いかもしれません。
歌会が社内コンペみたいのってどうだろか。

今日は卒業式なんですね

2007年03月14日11:57


袴姿のお嬢さんが多い昼時です。



ちなみに私、高校の卒業式は出ていません。
てか出れませんでした、出席日数足りずに(笑)
補習してましたよ。



一緒に受けていた同級生に「なんでここで一緒に補習受けてんの?」と言われました。
見た感じだけ優等生でしたから。



ふっと息抜きのため(物も言い様です)早退したり
よくやっていたもので、何の悪さをするでもないので
そこは担任にも不思議がられました。


後半肺炎で入院したりで日数的にアウトでしたが
第一期卒業生ということで、外聞も悪いからまぁ補習でいいだろと
グダグダさに救われた形になりました。



今現在の、学校の息苦しさとはまた違うのだろうけど
気持ちは少しだけわかります。


自分なりの安全弁の緩め方は独学で覚えていくものだけど
その学び方すらわからない子たちが多いかもしれませんね、今の時代は。

これから

2007年03月14日23:01


ていねいに暮らそう
たとえ
それがひとりで
紡ぐしかない
ささやかさとしても



そういう覚悟を決めなくてはいけない時期かしらと
なんとなく思った。

無尽燈を灯す道

2007年04月04日22:51


色んな意味での自分との闘いから生み出されたものの


鋼のような輝き。


でもそれが目的だったからというより


やむにやまれぬ事情や、どうにもならない衝動で
結果打たれて磨かれていた・・・という。



その事実に奮い立たせられて「明日があるんだ」と
希望に燃える時もあれば
この先ずっと要領の悪い人生を歩いていくのかなと
変に落ち込む時もある。
涼しい顔して振り幅が凄く激しいのです。


タロットカードに「隠者」という札がありますが、
見るたびにしみじみします。
真理の森の奥深く、孤高の道を無尽燈をかかげて
歩く隠者の姿。
女の身でこの生き方は、覚悟がいるよなあと。
で、我が身を振り返ります。


寂しさの灯は尽きないものです。

悪循環の効用

2007年07月07日15:40



失恋する→生活乱れるほど落ち込む→やけくそで働く
→親から金の無心→超ストレス→恋愛に逃げる→
そんな自分に自己嫌悪→結局失恋する…のエンドレスだった20代の頃でごわした。

落ち込みを少しずつこぼして立ち直る、という術を
最近覚えた(遅い?)ので楽になりましたよ。


感情の起伏に左右されるので歌を書く点では
優等生ではない私。
しかし書くことを人生に近付けたい欲求には素直でありたい。
不器用なりにも丁寧に日々と向き合える自分を
肯定できる表現としての五行歌。

そういう本質から先に判れば歌うことで悩むこともないはずだ。

サッポロ・シティ・ジャズ感想など

2007年08月07日00:33


やや出遅れた友人を待ちながら野外ステージへと開場と同時に目指しました。
そこでヨミガタリなどでよくお会いするKさんと偶然出会う。
これだけの人数で知り合いに出会える自体がスゴいことですよ!
お弁当をたくさん作りすぎたので「よかったらお裾分け・・・」と
いう間もなく売店に消えてしまったKさん(笑)
美味しい物に出会えたでしょうか?

オープニング、SUITE VOICEときて東京ブラススタイルの時に
友人登場。彼女のもうひとつの目的モディリアーニ展を
これから見に行く!との事なので
持参してくれたおにぎりとともに
鶏ハム、茄子とじゃがいものマリネ、スィートトマト(ロビンソンで半額だった笑)をいただく。
鶏ハムかなり好評。「マリーンの出番までには戻ってくるねっ」と出かけていきました。
以下箇条書きですが・・・。

☆遠目から見てもマリーンのナイスバディは目についた(どこ見てんだ)。
☆巧いボーカルのジャズはやはり安心して聴ける。歌い手の色の出し方がよく見えるスタンダードな音がやっぱり好きかも。
☆大黒摩季 with TOKU  プレイヤーとボーカルを兼ねられる人って
そんなに多くないものなんでしょうか?(その辺疎いんです)
でもあのスィートボイスはラッパ吹くだけではもったいないねと
友人と語り合う。
☆大黒摩季、すごくいい感じだったので最後が微妙に惜しい(まさか「ら・ら・ら」歌わせられるとは思わなかったよ・・・。)
☆エディ・バルミエリ/ブライアン・リンチジャズ・カルテット
一番凄かったっす。怒濤の音の嵐。ラテンジャズってこんなに
かっこ良かったのか!と非常にお腹いっぱいになりました。
☆上原ひろみ
MCでは実年齢よりすれていない感じがしていて普通の女の子っぽかったんですが
やはりピアノを前にすると全く違って、骨太だけど澄んだ音、
マイナスイオンが出ていたのは周囲の樹々だけではなかったはず。
あのステージの空気に一番しっくりきていたと思う。

実は最後まで見れませんでした。バスの最終が閉演時間より早いっていうのはどうか?
余韻を背に帰って参りました。
外でごろ寝でジャズってなかなかいいですね。
来年も行こうという話になりました。
おかずの量配分をしとかないと。今回出店もかなり豊富でしたし。
来年もエノテカ出店するならば次回絶対シャンパンは頼むぞ!

スポーツと人生への向き合い方って

2007年11月02日21:07


同じですねえ。

負けても明日は続くということの

しんどさ、せつなさ、楽しさを、

スポーツ観戦から教えてもらっているようなものなので

終わった結果にどうこうも言いません。

応援している自分たちが一番悔しい、んなワケはない。

わたしが「熱狂的に」なれないのは

そういう驕りとは違う場所で楽しみたいから。

今まで生きて来て味わった様々な事を思えば

こうしてビール片手にテレビ観戦できる事だけでありがたいのだから。

なので、楽しみますよ。ゆるファンの立場で。

そして、受け止めますよ。親心で。

「やめろ」「いらない」と言うは容易いけど

私たちの北海道日本ハムファイターズにいる限り

誰一人いらない「子」なんていないのだ。

メモ1

2009年01月22日13:48


床の間に置いてある豪奢な鎧は

かつていた持ち主が身につけていないなら

やはり飾りは飾りの骨董品なのだなあと。

そこに魂があっての美しさなら。見に纏い戦に出てこそ輝くなら。



歌に対しての感想を聞かれて
あたりさわりのない事を言わざるを得ない時
そういうことを考えてしまう訳です。


歌だけじゃなく相談事にせよ、それに対しての原因や本質について
「私はこう思うけどどうなのかなあ」とは言いますが
ただ、それを言った事によって、言われた方の根源的なトラウマに
突き刺さるとかそういうショックも多々あったり。
だからこそ何に対しても言われた事に対して自己弁護が習慣になっていて、
「でも仕方ないの、私ってそうなのよ」と言われた日には話し合いにすらならないのですね。
こういう返り討ちが一番きついですね。

でもそういう人は、きちんと周囲に「こんな自分を許してくれる人たち」を
集めているので、いつまでたっても変わらない。
許してくれる=受け入れるではないのですが。

歌メモ

2009年01月28日03:21


世界が狭い

じゃあ、深いのか

と言われればそうでもなく。



そのときだけ、うたうと言う形だけで猛省しても変わらないのは
うたうという形では他人は肯定しかできないからだ。
ありがたいけどいいのか

それでいいのか。

とこしえの春~阿島智香子様へ~

2009年02月13日22:06


歌そのものもそうだけど、全国歌会での作品に対しての怜悧なコメントが一番印象的でした。
歌質か近いわけでもなくあまり接する時間も機会もなかった割には
なんとなく親近感を感じてはいたり(ああ、チャット歌会とか歌誌の作品欄が隣だったりが割と多かったからか?)。

これから会う機会がなくなったのは寂しいが、
歌は残る。

歌を見るたびそこにいる。
そして春になったとき
咲く桜を見るたびにも。
そういう意味ではずっと、永遠の生を得られたのだと思う。

そして志半ばであろう人に
簡単にさようならは言えない。
死なない思いを残していただけたことに只々感謝。


欄がなくなったとしても
私の中ではずっとマイミク。

しかし
亡くなられた時と同じ年になったとき、
私はどれだけのものを残せるだろうかね。

こなれすぎた言葉の始末

2009年05月13日11:46


たびたび使う決め台詞的な言葉は、着古した服に似ている。

自分のこれまでを凝縮されたかたちでもある象徴。

着ては洗いを繰り返した愛着ある言葉。

擦り切れていても着るひともいるし

見る人によっては鎧にも見えたりそれぞれだけど


気がつけば纏っている言葉は何だろう。

着すぎて擦り切れてることに気づけてるか。

何故そこまで着るのだろうか。

愛着だろうか。

依存だろうか。




変わらずにいたい、なんて普通に世にまみれて生きてるうちはむりむり。
着古した数=芯だという付加価値をつけて自分の更新を怠りたくない。
少なくとも自分の箪笥だけはそうしたい。
「芯」って具体的に見えるうちはあざといし。
遅くも気づいた。でも気づいてよかった。

2010年9月22日水曜日

歌会、という響きの閉鎖性

2006年07月22日14:57


本誌ではお目にかかるけど歌会には来られてない方もおられる。



持病があるとか休みが合わないとか様々な理由の中に



そういう集いの閉鎖性みたいなものを
感じている人もおられるのかもしれない。



自分で楽しんでいる方が気楽だし、
そういう場所であれこれ批評しあったりするのもウザイ。
とかく縛られないのが北海道気質。



実際私も、こうやって最初の段階で歌会発会に関わらなかったら
こういうスタンスで書き続けていると思う。
従来の結社的どろどろ感を想像して。



そういう意味でも詩や短歌などでもしがらみに囚われずに、
��ネットとかで)活動している人の感性はクリアーだ。



こちらだったら、そよ香さんやあやさんがおられるが
そういう方達と触れ合える、というのが
歌会とは別の楽しさもある。



歌について語るのもだけどお茶とケーキでおしゃべりもしたい
それだって歌会に来る理由になる。



人に触れてこそ開けるものもある事を伝えたいなと思う。

内なる寝床にもぐりこむ

2006年07月25日21:58


仕事中にも関わらず、ホウキを動かしながら
「うつくしい」生き方ってなんだろ、と思索する。



所謂品行方正な姿勢を言うのなら違うだろう。
想いに違わず、信じる道を行く事だろうか。
うつくしさの観点は人それぞれだから様々な向き合い方があるだろうし。



私はどちらかと言えば・・・上記みたいな生き方はたぶん出来ない。



時には浅はかなな知恵を働かせて転びながら立ち回る方が
生きていて楽しい気がする(楽という意味ではなく)。



少なくとも、今まで流してきた汗と涙(時々、血)は
私自身を裏切らなかったし
これからも多分そうだし、そうありたいと思う。
この真理だけは輝いている、



と思ったところで仕事も終わり、
スタバでゆっくりしながら腑に落ちる。



私がわたしへと還る瞬間は寝床の安心感に似ている。



明日を生き抜く為、今日を眠ろう。



Good Night

時たまの叙景歌

2006年07月30日22:57



なんとなく思うのは



叙景歌をつくる時、その時見た山やせせらぎ
草の匂い、風のそよぎに言わば「手を貸してもらって」
歌になるような気がする。



私が楽器だとしたら、
自らの想いとなけなしの技術で歌を歌うが、
この場合は、外から感じた五感が内を通って指となり
風なら風の、山なら山の響きを奏でてくれるのだ。



抗わず、委ねて見えてくるもの。



こうした気付きは自然の中だけでなく
普段の雑多なくらしの中でもある。
もちろん恋のさなかでも。



それをわかりやすい形でドーンと提示してくれるのが
大いなる自然なのだろうか。



山の頂から望む、広大さ深遠さ、引っくるめたすべては
切なさにも似た感情だ。
それすらも抱ける気にさせてくれるのも
私もまた自然の一部だからなのか。



時たま書く叙景歌は、だから楽しく意義深い。

それぞれな姿勢でいいだろ

2006年08月31日09:52



スタンダードに内面から湧き出るものを見つめるのとは
また別にして



身の回りのことあれこれを日々を綴るように
ポンポンと五行で置いていく。



ディテールで遊ぶ、手芸や工芸の
「今度はこんなの作ってみたいなぁ」な
ワクワク感もいいと思う。



様はそのできたものを
作者自身がどう見つめられるかなだけで



「この時の私の心境はこうなんだ」
「何か足りない気がするのは気持ちかな言葉かな」



教える立場なら芯がどーとかより先に
そんな風に考えさせるのが大事なんじゃないの?と思う。



そしてそこから「色々書いたけど私の歌いたい事は何だろう」
と、そこまで考えさせる階段を根気よく用意するだけの話だ



友達が難儀している様子を思うにつけ考え込んでしまう。
私だって気がつけば頭ごなしに歌を語ってるかも知れないし。



ともあれやっていて楽しくなければ
やめていいよね。



難しく教えてもらわなくとも書けるのが
五行歌なのだから。

今月の本誌

2006年09月04日22:31


秀歌集はまだまだ見るのは先なので今月号の本誌から



中邨さんのブルドック歌。



くぅーっ(泣)。
私にお金と時間と犬の飼える部屋があれば~。



野田凛さんの雑踏の歌。
これを見て思い出したのが東京の人の波。
歩いて肩をぶつけようが、皆謝らない。



確かに心も枯れてゆくだろうな、と思った。

ただただ想いの奥へ

2006年09月05日12:08


食後にタリーズコーヒーにて。
タリーズに行くときはなぜか雨の日ばかりだ。



河井寛次郎「火の誓い」を読みながら考える。


想いを開かせると同時に
言葉の中へ深く深く隠れてしまえたらと思う。
生身の自らが一々語る必要も無いように。



言葉のマテリアル、形状の連鎖がいざなう永遠
��最近ようやくフラクタルの原理を理解できましたよ>薔子さん
やはり私の頭には図形で示してくれた方がわかりやすい)



ただそれだけじゃ足りない。
そしてどこまでも無意識に伝わるものでありたい。



ふと、改めて
何かがすーっと立ったような
そんな気分。

えぐるように

2006年09月06日12:26


土門拳の「風貌」を見ながら。



これはファインダーの向こうが対象だけど



これくらい容赦なく表現をしてみたいものです。



短気じゃないんですが、理屈だけ先に立つとか
口が動く割には身体が重いとか目の当たりにすると
自然と本能のこぶしが疼く(やけにカッコイイな)のです。



でもそれより、この手で私自身を磨けば済むこと。
この積み重ねにまさる強さなんてない事。



うむ、と改めて確信。

2010年9月21日火曜日

詩歌とコピーの境界線

2006年01月25日12:31


友達がいまして、コピーライターを生業としていますが
短歌をライフワークにしているのですが



彼女いわく「コピーライターという仕事柄らしい・・・と歌を評されるのが不思議だ」と。



その評のニュアンスが、コピーを若干軽く見ている感じがあって
それが我慢ならないという。



彼女にとって詩歌もコピーも、言葉を使って表現するスタンスは同じなんである。



ある意味身を削って、言葉と向き合っている彼女からすれば
詩歌とか文学とかの概念での境界線は、無意味なのだと思う。
寧ろそういう区分けこそ嘘くさいと。



これに関しては私ももっとじっくり考えてみたい。



今日も頭脳労働に明け暮れている彼女に
久々にメールしてみよう。

一冊から全てを知る

2006年01月28日19:54


クラスにも居場所がなくいつも通っていた図書室で
最初に読み始めた近代文学が芥川竜之介で小学校5年頃である。



思えば小学生の頭でも、実にストーリー展開が追いやすかった。
読ませるテクニックの上手さなのかな。



しかしその小説に秘められた滋味や不毛感、哀しみや批判精神を理解できたのは、
後に数年おきに読み返したりしてからだ。



個人的に好きなのは「歯車」「蜜柑」「奉教人の死」「在る阿呆の一生」



現代の小説は、実は一切読みません。



そこに真理が凝縮されているような、濃い一冊を飽きもせず読んでいたい方です。



読め読めというより、漫画でもいいからそういう本を探す手伝いをするほうが
読書離れな子供も減る気もしますが。



私は「つる姫じゃ~!」と「大甲子園」から教わりましたよ、人生を(笑)




人生は落丁の多い本に似ている



芥川の言葉です。そしてその欠落した部分を埋めるのも本なのかも。

よい子ちゃんからの脱皮

2006年02月02日11:33


「僕はどうも合わないなぁ」と歌を書いていた知人(男性)が
ある歌をいくつか挙げた。



その時二人で見ていたのは五行歌誌。



その歌は姿勢正しく、美しい心のありようを語っていたが、そこが物足りないらしい。



でもまぁ、思いの上澄みを歌うことが作者にとっての完成形なのかもよ、と言うと



「きれいでもその世界観が狭いのが気になる」



あぁ、なるほど。



テクニックだけで表現できる広さがあっても
それは字面だけ「広い」と書かれていて、あー広いんだなと漠然と思うだけに留まるにすぎない。



普段の価値観の奥行き広さが、スケールの広さか大風呂敷かの境目を決めている気がする。



「思い切って自分の世界を広げてみるとかの発想がないのかもしれない」



例えば?



「駆け落ちとか家出とか」



・・・(ややウケタ笑)でもそれって本人が何かをきっかけに
意識しないと変わらないよね。



「ある意味与えられた環境で満足しているから、余程の事がない限り
自らの枠を拡げようとは考えてないと思うよ。」



多分彼自身の好き嫌いも激しく関与してますが
なんとなく納得。



もちろん作者だって自分の歌に満足なんてしている訳はないでしょうが、



そう考えられるかどうかなのかなぁ。



30過ぎてから「私変わらなきゃ!」「本当の自分て何だろう?」は



遅いがな!と思いますが



手遅れという意味でなし、経てきた年齢と経験で凝り固まり始めた分
葛藤が激しいよっていう意味です。



でも、それを越えていって脱皮していたひとも沢山いますし。



失うことを畏れなければ、ずーっと先に得るものもある。



目先の痛さを堪えてまずは、脱いでみたらば?



そこで取り巻く温もりや、剥き身な自らの脆さを知るはず。



その服をまた着るか、どうかは自分次第で。

あなたにとって歌とは

2006年02月05日17:41


こういう質問を度々受けます。



端的に答えれば



時折つく溜息だったり、怒りの鼻息だったり
自分の心を見据えた時の無呼吸状態であったり



どれも、私の心を「少しだけ」風通しをよくしてくれます。



少しだけ、という部分を重ねてもうじき10年になります。



飽きない限りこのままいくでしょう。



救う救われるなんて結果論だ
権威なんて嫌いだよーだ



の精神でぼちぼち行きます。

揺れながらも探す

2006年02月14日22:22


余っている食材で、簡単鍋。
豆腐、ネギ、鳥肉、白菜をダシ汁のみで煮て
味ポンににんにくのすったのを入れて食すのです。



卓上コンロなんてないので、ガス台の前で立ちっぱなしですが。



だからという訳ではないが



これからの自らの立ち位置について思う。



フラフラと、このまま美味しいとこ取りでいくのも気楽だ



でもやはり



自分で在れる場所に、多少の風雪に打たれながらも
立ち続ける、というのが一番いいのだ。



貫くことはしんどい事で、でもそのしんどさからしか生の実感は得られなくて、



日々迷いつつ思います。



でもそのフラフラ感も楽しかったり、そんなこんなで
鍋も煮詰まり夜も更けます。
今の、この位置が、私で在る場所なのだとしみじみしつつも。

Mっぽいだろうか?

2006年03月07日12:41



どんな抽象的表現でも、実は確固たる理論の裏付けや
綿密な手法が潜んでいたりするものと思う。



昔授業で絵の模写をしたことがあり、画材技法を想定し、まねっこする事によって
表現する技術、を学ぶというもの。



それらしく真似はできるんです。



でも違うんです。テクニック云々というよりも内から奏でられるものが
圧倒的に違う。それに気付いちゃった。



全然真似できなくて違うものになってしまう方が
まだ救われます。



中途半端に真似出来てしまう事の方が惨めです。



こういった比較追究でたまに頭をかち割られるショックが



自分を活性化したりする部分もありますが、
「もっとぶって!」じゃないけどさ(笑)



五行歌は、あくまで個人の裁量に任せるものであるから
そういうものとはまた違う。



でも



この思いなんて所詮甘ちゃんの妄想だったんだ、と気付かせるきっかけを



結構焦って探しています。多分すぐそこにある事実を。



自分であることを、追求すると同時に、



それを張り倒してどつきまわすような



凌駕するものをも求めてしまう。



なので例えば「この歌は好きじゃない」とある人に言われても、
ニヤニヤと側ににじり寄ってしまうかもしれない(笑)



褒め言葉も積もり過ぎれば毒ですから



逆にその方が歌そのものの全体像を見せてくれるんじゃないかと。

静かなる嵐のごとく

昔からそうだが、私は内面の叫びと形にして表現されるものとのギャップが激しい。



愛すべき可憐なものが好き。



でも壮絶な葛藤を、自分の中では飼っていたい。



今はそのどちらにもリアルな手応えを感じられるから、
そういう意味では満足。精神の均衡を保っていられる。



人に贈るため、
古布のちりめんに花のリボンを縫い付けた小袋を
考えながら、こんな歌も浮かぶ。



誰かのため
なにかのため
今日も
涼しい顔して
血飛沫を浴びる (推敲中)



つくづく私でしかない私である。
静かな嵐の真ん中で、そんな事を考えている。

考えただけで・・・

2006年03月17日21:05


また書評を頼まれてしまった・・・。



四月初が締め切り。
ちなみに本誌投稿は月末。今月の25日から野球開幕。ちなみに当日は代番出勤。四月六日はクラフトカフェ参加。
それの下準備で土日は追われるとして



書評はいつ書けばいいのだろう(笑)



去年は札幌ドームへ向かうシャトルバスの中で書きましたが



これから送られてくる歌集を読んでからですが。



いやー・・・原稿用紙6枚も埋める自信がありませんよ。
熱い要望という話ですが(本当なのか)



まずは読んでみて、そこから何か浮き上がってくれば
それを掬う・・・感じですがどうなるやら。

伝えたい想いに張り裂けよ

2006年03月18日23:56


今日は歌会でした。



二次会のお茶会では歌の話を久々にじっくり出来て、
満足した。



向かいに座るFさんとしみじみ話したのは、



どの行も揺るぎない五行歌、というものを作り上げる難しさのこと。



キーポイントな行の在り方として(「前半二行」とか「最後の一行」とか)
主題を語らせる事に終始する構成は、メリハリがあって伝わりやすいが



しかしそれが歌のコツ、なんて思ってしまったら
更新も進化もない訳で。



敢えてそこを破り、越える意識を持たないと、
なにより自身の型に固執することの疲弊と
向き合わないと、言葉のルーティンワークになってしまうと。



で、そういうしんどさに一種の喜びを感じられない人は
淘汰されるんだろうなぁと、ケーキや杏仁豆腐を食べつつ言ってました。



そして、虚構を歌うならば今生きている現実以上の切実さを
読む側に感じさせなきゃ、虚構である所以はないんじゃないかとも。



そういう意味で逃げ場も作らず、意識を持って歌う人はどれくらいおられるのだろう。



私自身は虚構系の歌は好きな部類に入ります。



だからこそもっともっと、壮絶で切実であってほしい。
プレッシャーかけてる訳じゃないですが



私のようなその場のボヤキではなく(笑)
このスタイルを貫くならば、ある種の「高み」の先にしか
目指すものがないし、目指すしかないのではないかと思うのです。

指針は自らの内に

2006年03月24日09:11


「なんで他人の言葉にいちいち感心しなきゃならんの。
自分の人生なんて自分にしかわからんのに。」



偉人の心を打つ言葉、みたいな文庫を読んでいた時



会社の他部署の上司にさらっと言われた言葉。
気さくでフランクな人柄との微妙なギャップ、だからなお強烈に覚えている。



今、言葉に近いところにいる私には



時を越えて、しみじみグッとのしかかる一言だ。



自分にとっての指針は、自らの内と格闘し、得るものだ。



それはどんな格言よりもささやかだが重く、確かな光を放っている。



それが例え拙くとも、せめて足元だけ照らせるはず。



フランクリンやソクラテスにしろ、所詮は他人の言った事でしかないと。



「はー」とか「ほー」とか心地いい感心で終わってしまうものだ。



汗かいて得た現実ほど、後から助けてくれるものはない。



当時の上司の年齢は、今の私より少し若いはずだ。



あぁ、まだまだ冒険しなきゃ。

踏んだり踏まれたり

2006年03月26日12:53


スタバでしみじみ思索。



誰かに踏まれているとしても、自分の足元を見れば
やはり誰かを踏み付けていて。



しがらみのミルフィーユ状態。世の常です。



足元の顔と目を合わさないのが暗黙のルールであるが



あえてそこを見ちゃう。踏み付けている目を、私を踏んでる足を。



そしてそこから生まれるものを。



痛いふりや痛くないふりなどせずに、淡々と。
その生まれた背景を探る。



も少しで空になりそなキャラメルマキアートを前に、そんなことを考えてました。

難しく考えるのもナンですが

2006年04月14日23:55


とことん自分と向き合うのって、常に自己と一対一という訳ではなく



例えば人生の節目毎に起こる出来事、強烈な失恋、死別や離婚などなど
��マイナス要素ばかりとは限らないのだけどパンチはきつい程効くだろうし)



その時打ちのめされてあらわになる本性を自覚したり
ショックを受けたり、それだけでも充分己と向き合う行為であると思うんです。



その現実を逃げずに受け止めれば、
一時期再起不能になろうがひきこもろうが
素晴らしい糧になると思うんです。



自己探求としては、こちらの方がずっと気持ち的に健全(?)な
気がしますが。



なんでこんな話を書くかというと、何気に思い出した事がありまして



ある人から色々な相談をされたんですが



で、不肖ながらもあれこれと私なりにアドバイスもしたり
したんですが



その人はどうも、そのアドバイスをどう生かすかというより
「いいアドバイスを聞けて満足♪」て聞いただけで
解決した気分になってしまうらしく(笑)



真剣に考える側が、どっとツカレルのでした。
こんな調子なので毎回同じ悩みをウダウダと聞くはめになる訳なのです。



精神的に苛酷な状況か、もしくは葛藤する必要がないほど
満たされ過ぎてるか。





突き詰めれば、深みに行けても視野は狭く、
突き放せば見えない影も俯瞰で見える。



バランスなのです。
そもそも非生産的な作業なのだし、
根詰め過ぎるとまいっちゃいますよと言う話。

けものの涙は流せない

2006年04月25日12:00



石垣りんさんの「くらし」という詩が好きですが



最終行へかけての貧りの羅列。
凄まじいけど、でもそうなんですよね。
誰かや何かを貧っていく。



だからこその涙の救いなのだと思う。



今現在の私もあれこれと貧り中でありますが
��たまにお腹をこわしながら)



思うのは



私から見れば、結構恵まれている人なのに
無意識或いは意識的に破綻を求めているというのが多い気がします。



かと言って、何を切り捨てるでもなく
愛とご飯付きの暖かい部屋で悩んでいる矛盾。



それは「くらし」の生き様とは逆ベクトルな
安穏を食ってるようで実は喰われているような



そんなことをふと感じた。

裏側の投影

2006年05月01日00:51


多分これほどまでに平穏であることに憧れるのは



自分では意識してなくとも一般的な家庭より
それとは程遠かった環境にいたからなのだろうか。



他人が居候してたりとか、その他人の親戚が上がり込んだりとか



叔母が叔父の元から逃げて来たりとか(着物持参で)



変な話ですが、家へ帰って来て誰もいない事に



ほっとする時期がありました。



これはある種の人にはわかりずらい想いであり
無理にわかってもらおうとするのもなんなので、まず語りませんが。



その背景からか、向き合う対象は自然と自分の内面になり



年々無口になり(笑)今に至ってる訳です。

己を貫く、という努力

2006年05月02日21:55


イラストの仕事をしていた時、もちょっとそういう努力をしていれば
また違っていたよな・・・と思う。



自分の感性を信じる努力みたいな・・・。
そこまでしないとならん事自体がダメな気もしますが。



自信が持てないから、他人の作品を羨ましがるのだよね。
もっと澄んだ気持ちで自身や作品と向き合うべきだったと。



「でも今は五行歌やっているし、たまたま表現ツールの切り替わる時期だったんだよ」



なんて思わない。



それはアンタ都合のいいすり替えだよと鼻で笑いながら
何度でもほじくり返して私自身に突き付けてやる。



今度こそ逃げ場のない所から何かを生み出すために。

コツ、があれば苦労はしない

2006年05月10日12:45


知人から意見を求められて、うーむ状態。



表現に対してのアドバイスって、
技巧的な事しか言えませんよねぇ、歌も絵も。
果たしてそれで納得してくれるだろうか。
創造ってすっごく孤独なんだという事を
どうやって伝えられるか。どうもそこらへんが理解していない気がする。



本人でしか、その寂しさからしか生み出せないのってあるし。
かと言って私の考えを押し付ける訳にはいかない。
全ては本人次第なのだ。



自分に足りない積み重ねを自覚してるなら
量を書くなり基礎を一から学ぶなり
自らがむしゃらに動くのが当然だし。
それが気持ち的な寄り所になり、技術を上げるのだから



うーむ。



しかしなんでこういう事を一から説明しなきゃならないのか~
理屈じゃないものを理屈にして語るむなしさを



判ってくれるか・・・わかんないから聞くのだよねぇ。

単独行動癖

2006年05月14日19:20


ひとりで決めて動くのが好きだ。



気のおけない人とあれこれ計画しあって
和気藹々と進むのも好きだけど



この、自分自身であることの歩幅は譲れないリズムだ。



漠然と、しかしはっきりと



私にしか辿り着けない景色があるはずだと思っている。



さほどでかい事をしたい訳ではないけど
小市民ですから(笑)



見識とかいろいろ足りないものばかりであるし



そのためにまずは進むのだ。



仕事帰りに、米なんて重たいものを買ってしまいながら、
そんな事を思う。

今日は歌会

2006年05月20日21:21


新しい方も見えて11人でした。



いろいろな方の歌と接して思うのは
歌会を重ねるにつれ、想いの変化が歌から見てとれて
興味深い。



その人そのものの空気感と歌から醸し出される匂いに



ぶれがなくなってきてるのを発見した瞬間が
なんだか嬉しい。
実際トータルで高い点数ではなくとも
その事実を掬って私は点を入れたりする。



完成度とはまた別で、多分形的に洗練させる以上に
むづかしい事だと思うし。



そういう事に、せめて敏感であり続けることが
私の数少ないできることな気がする。

独りよがりと自己世界の境界

2006年05月22日21:51




題名みたいなことを何気に考えてしまった。



歌会のですね、新しい参加者さんがとても個性的な方で
その方を思うとこんなことを改めて考え込んだりします。



詩とかやっていた・・・みたいな話は聞きましたが
抽象の極みみたいな言葉の表現で(そのあくの強さが魅力でありますが)



自意識ワールド強いです。で、コンセプトを語る口調が熱い。いやぁ大変(笑)
ただ一回目だしこれから回を重ねる事で
色々な刺激を受けてわかってくるものもあるかもしれない。



なんとなくですが、きっと様々な表現の場を渡り歩いて、



で、そこそこの場所であまり理解されなくて
知人の紹介でこちらの集まりを知った・・・みたいな雰囲気ですね。



個を尊重し、来るものは拒まぬのが五行歌のよさですが
そこに気付いていただければ



「個性的であらねばならない」という頑なさは
必要ではなくなるでしょうね。



かといって個性的であることを受容する=賞賛ではないのよね。
もちろんけなす事でもないし。
時間をかけて理解してくれたらいいなぁと思っています。



ともあれそういう風に駆り立てる衝動、
その背景のほうが興味深いです。



人とは違う存在でありたいという欲求・・・劣等感が背景にあるほど
強烈になる気がしますが。

思うことの続き

2006年05月28日12:52



歌にしろ絵にしろ、まずは



「つくること」を理屈抜きで愛してほしいということです。



どのジャンルでも、皆が仲良くて純粋に美しい世界なんてない。



自分自身はせめて真摯に向き合おう、という
姿勢が一番大事なんではないかな。
そういう意味でのエゴイストではあってほしい。



でもこれほどつらつら書いても、
がむしゃらに食らいつく!ていうタイプでもないし
一歩前でしばし考え込み、逡巡するのかもしれないから



すごく私はお節介損をしてる気もする(笑)



ともあれ描け。悩むより先に。

私に愛は語れない

2006年06月02日00:45


人の恋の歌見るのは好きなんですけどネ。



空想や過去の遺産を蒸し返し・・・キモチイイのはその場だけだし
自分が歌うとしたら、やはり現在進行形の思いこそが一番だ。



冷たい私ではあるけれど、これだけはひとりの相手の為だけに歌う。
もう、気持ちくらいしかない訳です。
相手に与えられる自分の中の一番きれいで純粋なものって。



その予定のめどは立たずですが(笑)



人生の建て直し中でもあるし、そっちモードに
いけないというのもありますが



多分デートの最中でも、今月のやりくりやなんかの事ばかり
考えてしまうでしょうね。





ぽつぽつと
アスファルトを
黒く染め
こうして哀しみに
慣れてゆく

2010年9月20日月曜日

このブログについて

主にMixiで綴っていた日記を転載するがためにこちらに来ました。
2005年~2008年初頭までに書いていたものをメインの倉庫ですが、追々現在に追いつけるかも・・・・。
只今ライフワーク中の五行歌については、たぶんここに何の気なしにふらりと来た方には
なんのことやら~な内容かもしれませんが、そこは気にせず通り過ぎてくだされば幸いです。
ただ、この短詩文芸に興味をもたれたら何かのときにわかる範囲でお答えできると思います。
mixiという閉鎖的な日記で書いていた分いささか激しい表現だったりする箇所もあるかもしれませんが
誰に向かって、というより自分に対しての部分であるので不快に感じることのないよう祈るのみです。


★記事に作成日の記載があるものはmixiからの転載記事です。

★レスは遅いです、どうかご容赦くださいませ~。

歌の話~リアルな寓話~

2005年11月21日23:22

何となく気になった歌についての感想を、たまに書いておこうと思う。

評、ではなく。

だので万事が抽象的ですんで、議論的価値はないです。
なまぬるーく見守ってください。


歌誌9月号の、香山かちたさんの歌。

鶯色の清掃員の歌である。

実際の風景であるかは別として、映像の「面」のみが鮮やかに迫ってくる。
色彩の描写も効いてますね。

が、しかし、あんまり作者の世界にのめり込むと、自分のヒトゲノムの螺旋を辿るような、途方のない感覚を感じざるを得ないので、強制終了(笑)

実際、清掃員を仕事としている私的に、埃を拾ってため息をつくあたり、色々想像してみた。


時間内に全てさっぱり綺麗にしたあとに、埃発見。

「あぁーあれだけ掃いてもまたあったよ」の落胆以上に
それを取るときの、屈まなければならぬしんどさのため息が多分強い。

膝、腰にくる仕事ですからねー。

落胆であれば真面目なのだなぁと思います。(もしくは細かい。一緒に働くと気疲れしそうなタイプ)

・・・時間に追われていたら、埃ならば私なら無視するかも・・・(笑)ゴミはまずいですが。

寓話のような不思議なぬくもりをこの歌に感じるのはなんだろうと考えた時、
多分一枚の絵のモチーフとして、上にも下にも見ていない目線だからかと。
「大変だなぁ」という余計な感傷もない。
そして、普段はビルの背景の一部であるが、この作品では主題であること。

歌とは別に、そこにちょっぴり救われた自分である。

歌の話~祈り~

2005年11月23日17:04


歩いて通勤している。

長いときは往復15キロ。


山奥の小学生か!


でも今日は


街で買い物なんでご褒美として地下鉄使います。


明日からはまた歩くが。


で、今回の気になる歌(素晴らしき脈絡のなさ)。


��1月号の三友伸子さんの佳作の歌。


不思議なのは空(天)との距離感。
・・・なんだか身近に感じます。


多分それは、ご近所感覚に近い。


あっけらかんと空を見ているようで


心が空っぽになるまで祈り倒した日々であったろう。


それこそ仏様が身近になるほど。


そして


その傍で向こうで生かされているわが子の存在をも。



あぁ、いいなぁと思うンですが、このお歌。


それとは別に、逆に「子が母を想う歌」って一定年齢を越えないと出てこないっすよね。

知り合いの方曰く
「生前は、ライバル意識のほうが先に立ってたわね、同性なら特にね」
なるほど。


私といえば、年々母の生きざまに近くなっていきます。


高校の時、伯父に「酒飲むしぐさなんかチぃコ(母)にそっくりだな」と言われました。


・・・


困った母子ですね(笑)

肉じゃがと五感

2005年11月24日12:51


学生時代の友人で、「肉じゃが」を下宿に入って初めて食べたという。


洋食しか作らないお母さんが家で作らなかったのだと言う。


その時ふと思ったのは


肉じゃがを食べたことのなかった彼女に、
「肉じゃがの絵を描いてごらん」と課題を出したらどうなるだろう。


なんらかのメディアで見た事くらいはあるだろうから、概念としての肉じゃがは描けるだろう。


しかし


それで肉じゃがの本質は描ききれるのだろうか。


触れて味わうことで、劇的に深まるもの、広がる価値観があるはず。


あのじゃがいものほこほこ感、甘辛く煮た肉と玉葱の交歓



なんか食べたくなってきた(笑)



絵画の観点で見ると、すごくわかる歌ってある。



映像メディアの溢れかえった環境で生まれ育った世代



そこから生まれる歌がこれからどんどん増えていく気がする。


文学の行方は如何?なんて心配は



昔を振りかえることと大差はない。



今感じられることだけに向き合って、さらなる深みと発見を楽しむために



久々に肉じゃがでも作ろう。

愛すべき未熟さ

2005年11月25日12:35

まだカタギの仕事(デザインの)をしていた時のつぶやき集(不定期日記みたいなもの)が出てきた。


��8年・・・悩み多き二十代でしたネ。


「(略)・・・今まで培った経験やタッチの変遷、センスの輪のなかだけで、ただ行ったり来たりしてきたような気がする。
そういうものは何らかの精神的圧倒や優れたものに対してのプレッシャーに弱い。」



とかく方向性に迷っていた時期と思う。



「白い紙を前にして何も浮かばない怖さ。何十分もその場で固まる」



軽すぎる絶望ですね。


表現できない、書けないのは単なる努力不足のこと。



「最初は真似から入りますよねー」と他の方に語っていた歌会のコがいて



何にせよ若い人が意気に意見をぶつけるのは気持ちいいから黙って聞いていたが



真似?



絵ならわかるけどネ。


そういう意識で書いたこと私はなかったつもりだが



ビジュアル、として見てるのが今時の感性かなぁと。



でも、何も言わない。



歌以外にも色々やって息詰まって、そこから感じる何かに気付けば



自分と向き合うという真の意味が見えてくるはず。



大人に見守るというより



その浅はかさが可愛いくて見ていて面白いから(笑)



でも楽しいですよ。



それこそ表現へのかけがえのない過程なのだから。

ヒトサマの歌について語るという事

2005年11月26日20:13


ここで出す気になる歌については感想のみしか述べません。


そのくらいの軽い気持ちでないと


ネットであるが故の前傾姿勢にのまれそうで。



毎回本誌などで思うのですが評は・・・難しいですよ。



作者の伝えたい全てを汲み取れる訳ではない。


それでも最大限掘り下げ汲み取りたい。



脳細胞総動員ですよ。関係なさげな小脳まで引きつれるつもりで



色々考え付いたのは



究極、貶しも誉めもしない、というのがいいんじゃないかと。



まず、評に取り上げた事自体が、その作品への最大の賛辞と思います。



なので高みに立って誉めるという類のものでもなく


その逆もある訳ですから貶す理由もない。



なるべく作者の感受性の周波数に合わせて(あまり合わないが)


表現者としての個性、視点を、探ってゆく。取り上げ書きたくなる理由がそこに必ずあるはずだから。


「この歌興味深いから、皆さん見てみて!」と
ある意味私も感動の連続



「この方は普段は穏やかな歌なのに今回はキレを感じる。なぜだろう。」
「踏み込むにはしんどい歌だけど、敢えて書いてみよう。」
「はぁーこういう発想は新鮮だなぁ。」



選ぶ基準があるならこんなパターンです。



なので好きな歌、という理由で選ぶのは少ないほうかもしれません。


評に関しては「歌を通しての表現者の資質提議」に撤したいとは思うけど


評者の考えも様々ですし。


しかし本誌の作品評スペースの在り方も


色々な意見があってもいいとは思いますが。

疲れやすい私(年のせいだけではなく)

2005年11月27日11:52




映画館で映画を見なくなって久しい。


演劇やコンサートも行かない。好きなのだけど行けない。
すごく疲れるンである。


憑依体質の人は街を歩くとどっと疲れるらしいが(次々と霊がかぶさってくるらしい)
そーいうのとは違って


例えば座席側が現実で、スクリーンや舞台が虚構の世界であるとする。



それを観賞するが為、意識が常に両方の世界を休みなく行ったり来たりする訳である。



境界のぶれに酔っちゃうんですね。



いかんいかんと集中すると無意識に呼吸が止まるのでなお疲れる



うちはケーブルテレビなので、お家にいながらにしてイベント体験もあれこれできますが


ちょっと寂しいですね。


ちなみに美術館などは行きます。
たったか見るので、空いていれば20分以内には見終わります。
自分のペースで見られるとこが疲れないでいいですね。

携帯という道具

2005年11月27日21:51


白菜と肉団子のクリーム煮を作ろうと思ったが、牛乳を買うのを忘れた。


缶のクリームソース(ハインツの)そのままでは、心許ない・・・


と、閃いたのが



味噌。



隠し味に投入!料理は常にアドベンチャーだ。



食べてみた。



やだ、美味しい!(笑)やってみるもんです。


話は変わり携帯、五行歌を作る際のメモ代わりとしての在り方が定着しましたね。



歩きながら推敲できるのが、くそ忙しい私には便利だし



リアルタイムの感動を即座に書き写せる同時性。



日々の流れに目を凝らして、見つめて、己に投げ掛ける作業は



アナログでもデジタルでも変わらない。


ただ、このツールは
机上の鎖から、少し心を自由にさせてくれる気がします。



そう思いつつ、通勤がてらポチポチ歌を作ってます。

自堕落を綴る訳

2005年11月28日21:05


歌の中での私は半裸のシチュエーションが多い。



精神の解放!とかではなく



一人暮らしが長いと人目のないところではこうです、という話。



男もいないのか!と母に呆れられたこともあったが(ちょっとショックだった笑)



いなくて悪いか!



とも言い返せなかった私(笑)。



今なら言えるが。




脱ぐという行為は実はどうでもいい



要は脱ぎ捨てたもののかなしさだよなと



自分自身に突き付けてそれを再び纏っての繰り返し。



行き着くのはそこなんだなと、ふと思った。



それすらも笑い飛ばせる時がきたら



どんな歌になるだろう。



・・・半裸から全裸になるだけの話か(笑)

老いてもロックの魂を

2005年12月01日16:34


ファッションにしろ音楽にしろ、守りに入る年頃になってきましたが



アジカンやくるり(レミオロメンも良いですね)の歌など何げに聴いて
「いいなぁ」と思える自分に安心する。



昔のポップスを聴きながら「昔はよかったなぁ」なんて


音に託け、過去を振り返るだけなんてかなしい。



時の流れに逆らわず



且つ今しかない感動を肯定し続けるって



実は根性がいる事のような気がします。



数十年後のタワーレコードに



白髪に着物姿の私はいるかしら。

未来計画の話

2005年12月02日07:40


来年は野球観戦とか全国大会とか何かとスケジュール重視の日々を送る予定になっているので
一枚バーンとでっかい書き込み式のカレンダーが欲しいなと思っている。



買うのも何なので銀行とかでくれないかなぁという話を
パートの方としていたら



「ついでにお嫁にいく計画も立てといたら?」と宣う。



だははははは!(笑)



以下提案
「まずは、そうねぇー6月の善き日に結婚式って書いておくのね。
で、大体準備や何かを逆算して、まぁ4月頃には結納まではいっときたいわね
と、いう事は年明けからもう、必死こいて相手を探さざるを得ないじゃない?
子供産める年令も限られてるし、先に計画立てるのも今のうちよぉ」



すごいこと言っているのだが不思議な説得力を感じるあたり、この方の芸風である。



先取り計画かぁ。



日々ノリで生きている私にはなかった発想。



先が見えないのが面白いのになぁと思う私のままでは



来年も縁遠いということなのかねぇ。

歌がわたしを語る

2005年12月03日01:48


この場所ではやめとこ、と思っているのは



自作の解説。



解説をしてしまうと、歌、として表現した意味がないんではないかと。



私が歌を語るんじゃなく
歌が私を語るべきだ。



それならなんも、わざわざコンセプト発表に力を入れずに、
歌への想いを濃縮させていけばいいんじゃないのか?



と、思った次第。



最後は、歌だ。



そしてそれは語るよりはるかに冗舌なはず。

想いは鍋底にこびりつく

2005年12月04日20:05


ぬーん・・・仕事から帰ってきて寝たり起きたりでした。



生理の初日はいつもこんな感じ。



体を動かす仕事になってから、痛みも減った気がする。



今月分の歌も出来てるし、ゆっくり過ごそう。(本誌に出す分+αしかいつも作りませんというか作れない。寡作です。)



昔と比べると大分自然体で歌と接するようになった気もします。



うちでは無水鍋でご飯を炊いているんですが、炊けて蒸らしている時間をなんとなく待っている



こんな風になんとなく想いと向き合っています。



されど出来る歌は炊きたてご飯のような優しさからは遠いのですが



ぼんやりの無意識が、隠れた断片を掬いあげるのか。



と、一瞬だけ考えて、炊けたご飯をかきまぜる毎日です。

飛べぬ哀しみを歌いながら

2005年12月05日12:27



とあるブログで紹介された一文で
「飛べると信じて中途半端に飛んでみて、墜落した時の痛みは忘れられない」
というのがあって、正にありありと私の中に蘇った痛みがそこにあった。



ある種飛び続けている人は



ずば抜けた孤独も抱えていたりするが



同情はしない。



かつて叩きつけられた地面の上で立ちながら思った。

歌の話~鈍色の艶~

2005年12月08日00:28


おばさん化、というより



女のおっさん化しつつある昨今



風呂の湯ぶねに入るとき「んぁあぁ~」と意味不明な愉悦声を叫んでしまう、寒い冬です。



いいんです。何をも失わない人生などありません。



なげやりに終わったとこで、歌の話。
��2月号歌誌から、にわか歌会レポートより紫野恵さんの歌。



最近見られる鈍色の渋さ加減が、私的には好きです。



つまり



着物は変わらないのに帯や小物を替えただけでガラリと印象が変わるみたいな。



だので、枯れたという印象はない。
分を知る、という潔さがこの色味を選んだのかなと思った。



むしろこういう変化から読む側は何を感じ取れるかが大事な気もする。



その見定めのまなざしに英さんとか薔子さんとか素音さんとかが



人として女として、そして表現者として
どう感じ、触発されたかの方が興味があります。



驚嘆だけじゃもったいないっすよ。

浄罪のエレベーター

2005年12月10日10:07



やはりどんな小さな世界でも社会の縮図であるのは変わらない



争いもまたそう。



しかし、その渦中にいるならば、
それを糧に出来なければ
人として意味がない。



歌、という表現するものを持つ以上
ひっぺがされる痛みでも、私は更新されたい。



透明なエレベーターの中で、上の階へ着くまでの時間を
外の景色を見て紛らわしたりする。



ふと昔の、犯した過ちなど思い出したり。



乗り合わせた人達の思惑はまたそれぞれであるけど



私は自分を改めて見つめ直す時間としました。



そしてまた歌をつくることで乗り越えてゆくのだろう。



時間が私を裏切らないことを祈りながら。

明け方の結晶、ささやかな決意(のようなもの)

2005年12月13日11:46



今朝は寒かった・・・。



ドアのガラスを拭くと、その拭き跡が瞬時に霜になるほど。
いつまでたっても霜がしゃりしゃりとして
きれいに拭けない(笑)。



「歌がわたしを語るべき」という考えを、改めて
強く意識したきっかけは本誌の歌人インタビューからだ。



安藤さんはきちんと仕事されていたと思うし、読んでくれた方からも
「感動した」という言葉も頂いた。



しかし、どうしても微かこびりつく思いがある。



他人の言葉で私の人生が語られる違和感。



話し上手ではない私にも責任はあるのだけど、
もう少し吐露すべき事もあったのではないかと。



でもそれを散文にした時の軽さが辛い。



そして受け取る側の重さが申し訳ない。



やはり、



自身のことは自身の言葉で語るべきなんだ。



みっともなくも生きた証を



形にできるのが歌であるなら。



時間がたつにつれ激しく悔いた私だった。



もう大事なことはいちいち語るまい。



私の歌からそれが透けて見えるくらいで充分。

何かはみだしたまま大人になって

2005年12月14日11:11


小さい頃から、たぶん今も苦手としているのが塗り絵。



どうしても綺麗に塗れません。



枠内を規則正しく埋める、というのに
飽きてしまうのかもしれません。



退屈と予定調和の不安感。



子供ながらに「たるいなー」と思っていた。



ほんとに小さい子の塗り絵は、
とにかく気合から何からはみだしまくって
その迸る様が気持ちよくていいのだが。



何歳くらいから、ああいう枠内で収めようとする秩序みたいな意識って生まれてくるのだろう。
「綺麗に塗ろうね~」というのもひとつの抑圧だよなと。



つまんないですねー。

その世界にあなたが在れば

2005年12月15日09:02



数年前ある方から言われたのが
「何を歌にしても、その世界の中に詩乃さんが存在していれば
それは立派な詩乃さんの歌じゃないかしら?」
という言葉。



しみじみと感銘を受けた。



歌はどうあるべきか云々ではなく(大抵の人はそれを求めているが)



実にシンプルな個の尊厳と肯定。



息をし、泣いて、叫んでいる真実は変わらない。



当時自分のスタイルに固執していた私の、肩の力を抜いてくれた。



これから来るであろう、内なる変化に忠実に



けれど指標はずれることなく



どんなジャンルだって書きたいときに書けばいい



そこから何か自由になれた気がします。



今も毎日歌を作っているその方に、いつか会いに行くのが願いです。

ごった煮的歌会の楽しさ

2005年12月16日10:49


当たり前だが、歌会に集う人それぞれ個性がはっきり違っている。



歌に対する価値観もバラバラ。それが当然だ。



それを徹底討論する場といえば違うと思う。



不毛にガーガー言うなら、その厳しさを己にのみ突き付けましょうよ、と



思う私はキツイでしょーか(笑)



作品に対しての意見も感想もツッコミも冷やかしも全部含めて



楽しんだもの勝ちと思うンですが。



ごった煮のようなうちの歌会を思いながら考えてみた。



見た感じ煮崩れてないゴボウとか
いい味を出す昆布とか、そういう状況を超越したかに見える
孤高のコンニャクとか当てはめると面白いですね。



明日は今年最後の歌会です。



鍋奉行の気持ちでいきましょうか。

明日に向かって食う

2005年12月21日17:41




手作りごはんが一番だが、ファストフードも好きだ。



歌すらスタバで推敲する私にとって、もの思う言わば書斎だ。



喧騒の最中、にいるほうが精神が一本の線になるように集中できる(ような気がする)。



しかしそれよりも



命を繋げた場所ともいえる。



昔、生きることも食べることもいやになって、水分しか取れなかった頃



唯一、口にできたのがマックのバリューセットだった。



その恩という訳でもないが、マックにはちょこちょこ通っている。



感傷とは遠い喧騒の中期間限定のグラコロバーガーセットをかみしめる今がある。



とにかく、何があったって、いいのだ。
生きてりゃ月見バーガーだって美味しい。

不登校孝

2005年12月22日10:41


高校入りたての頃、あぁ学校やめたいなぁと一瞬だけ思った時があって



「じゃあ働いてもらうよ」の母の一言であっさり改心したんですが(笑)



学校に馴染めないなら馴染めないなりに
はけ口を開拓したものですが、(私は部活と早退街中徘徊)



今の子ってどうなのかなぁ?



突破口を見いだすために建設的に自ずと動く、というのがないような・・・。



何でもお膳立てされて生きてしまうとこうなるんでしょうか。



学校へ行っても行かなくとも、打たれる雨は同じで



その時傘を持っているかいないかの違いに過ぎない。



そこまで考えた末で貫きたい君の意志は何?



子供だろうが、確固たる理由があるならば
扶養者に説明する義務はあるだろう。
私が親ならそう聞く。



語らせて考えさせる。それから改めて考えて決めればいい。



私個人としては、親の言うことをよく聞く子より、こういう子好きですが。

いつか帰る場所を探して

2005年12月23日23:04


生まれは青森だが、故郷ではない。



祖母が亡くなってから、微かな繋がりも途絶えたし
何分母とふたりきりなので年末やお盆は実家へ帰るという概念が淡い。



ただいまと帰り「おかえり」と返ってくるのが
帰れる場所ならば、私には今いる1DKすら違うのか。



動くには身軽がいい。けれど



袖口から吹き込む寒さの中見るのは自分の影だけだ。



いつか私の前に巡り来る故郷は



暖かい湯気の向こうから、のほほんと
おかえり、と微笑みかけるものであってくれたらと思う。

今度こそ歌の話~永遠の包容

2006年01月02日19:56



生まれてから1~2年、実質的に私を育てたのは祖父母だ。



なので老齢の方にはまず逆らえません。〇〇ババァなんて言うのは有り得ない。



さて今日帰宅したら本誌が届いてました。



壬生さんの盲導犬の歌も「うひょー」と思いましたが



今回はこれです。



佐々木祈美さんの遺作集。



年を経てきた方の、独特の包容力が(自然の年輪にも似た)



言葉を通して、ゆるゆる読み手を包んでゆくような



達観、ほど押し付けがましくなく



あくまで、そっ、と。



個人的にはサンマの歌にぐっときました。



焼かれたさびしさごと包む眼差しが、なんだか有り難かった。



前に進む勇気を奮い立たせるのは
やはり自分しかない訳ですが



この歌以外にも、こういう呼吸に触れられると



あぁ、私これからずっとひとりでも生きていけるわって思える。





そういえば亡くなった祖母は



いつも針仕事をしていて、その傍で遊んでいた私がいた。



今なんか近いことをしている事を思えば、そういう刷り込みがあったのだなと。



そんな事を思い出させてもらいました。

もいっちょ歌の話

2006年01月02日22:44


今月は何だか新鮮な感じがありますね・・・。



表紙歌・・・あぁその通りだなあと思った。



極限から感動を見出だすべきか。
平穏の積み重ね、その厚みから感動を見出だすべきか。



私はどっちでもいいと思いますが。胸打たれれば。



生きるか死ぬかが日常な人も確かに存在して



その現実には歌論なんて薄い薄い。
そういうのこだわる方多いでっすね。



稲本さんの食器を洗う歌



劇画調!稲本英!(魁!男塾みたいだな)よりしかし



市井のいい女あーやんて雰囲気のこの歌が私は好きです。



好きです、なんて男にも言ったことないな・・・
いいや、次行こう(笑)



綿屋さんの焼魚の歌



この眼差し、満たされた幸福感が溢れている。



やはりたくさんの歌を眺めていると
思いのエネルギーというか、そういうものに感化されている気がする。



日々はしんどいけど



ふっと肩を軽くさせる。歌を通して、それぞれの生を精一杯生きている、という連帯感。



そう感じている方も多いはずだ。

どんなに幸せがすり抜けても

2006年01月05日17:42



久々にロト6を買ってみた。一口200円。



で、その後手芸店でくじ引きをしたら商品券200円分当たった。



何気に元が取れてちょっと嬉しかった。てへ。



昔はナンバーズ4で三万ちょっと当てたことがあって
それが最高額。



それ以降は末席ばかり。
もしやそれで運を使い切ったか?



買いたい物がたくさんある、というより



お金でカタをつけたい事などを全部やっつけたいのだ。



私がほんとに欲しい物はお金では買えない。



それこそ、年末ジャンボで当たる確率より巡り会う可能性が低いのかもしれないけど。

呟きは叫びなーのだ

2006年01月07日10:20


言い切り!型の歌をあまり書かなくなったなーと最近思う。



��だ、~なのだ、とか有無を言わさぬ迫力感を訴えさせてくる。



そこまで至る思いの濃さがあってこそ生きるものだと思うし



その場凌ぎの勢いだけならそれこそバカボンパパ以下でしかない(そ、それだけは避けたい)。



読む側の耳元で叫べば、うるさすぎてしまうので
最低みかん箱一個にのっかる程の高みから
歌わざるを得ないのも気になる。



電光石火、という言葉は、



振り下ろされる刀の速さを表したのではなく



斬られる側に一切の間も与えぬ極意なのだと
何かの本に書いてあった気がする。



意識して鼓舞させずとも、確固たる部分が出来てきた、てことなんだろうか。



いや、単に無駄に力を使えなくなっただけな気が(笑)



逆に何気ない言葉で、どう大きな思いを伝えられるかの方が
今の私の中で重きを成している気がするし



そこから内なる高鳴りというか叫びというか
読む側との相乗効果で聞こえればいいのではないかなと思う。



言葉は魔法だけど、世界の中心は私だけど←歌を詠む上で



それはある次元では無意味であることも受け止めて



自分と向き合い続けていくだけだ。



たまに言い切りで終わってみました(笑)

教えない、という難しさ

2006年01月09日18:57



思うのは



ことある毎に「聞けば教えてくれるだろう」と
思っている人が最近多いなと。



言われて困るのが
「五行歌のコツって何でしょうか」



歌をつくり始めて間もない方からたまに言われる。



きっとがっかりされるであろうが
「いやーとにかく(沢山)書いてみてください」とあっさり答える。



でもこの問い、あまりにも抽象的で
答えるのにホントに困ります。



技巧的なことをかいつまんでちゃっちゃと答えれば、
コツ、ということになるのだろうか。



でも、それが五行歌の全てではないと思うので



簡単に説明してしまうのが、相手に対して逆に不誠実な気がする。



堅いだろうか?(笑)・・・でもそうだと思うんだけどなぁ。



歌に関わらず、何かをつくるのが好きな人って



とにかくずんずんとその世界に邁進する。無心で没頭する。



人にむりやり歌を勧めようとは思わないけど、つくる、ということに対して
そうあってほしいと願っている。



つくることは楽しい、しかし、つくることをなめてかからないでほしい



不親切だ、と思う人もいるでしょうけど、事細かく教える類のものでないしなぁ・・・



私自身迷いながらですが、それでも歌会の人を含め、あらゆる歌を見つめ続けているつもりです。

詠う以上は歌の作り手

2006年01月13日09:00




歌と接する期間が長くなるにつれ



見方の姿勢が固まってしまうことは避けたいなと思う。



歌を詠う以上は作り手であって、批評家ではない。



さして広くもない世界の中で
目が肥えたなんてことは有り得なく、単なるそれは慣れでしかない。



他の作品を読むときの、自分の目線をさらに俯瞰で客観視する。



なんか・・・ここまで意識してないと、作品に対して新鮮な気持ちを
保つのがむつかしい気がしますよ。



書き続けるむつかしさの一つでもありますが。



あれこれと歌について語り合うのはいいんですが



どうも・・・他人に厳しくて自分に甘い人に限って、
うがうが言うのが気になる。



あぁ、私これからどれだけ長く歌をやっていても
「最近の五行歌界は・・・」なんて言わないぞ。絶対言わない。



孫くらいの歌友からいろいろ新しいこと教えてもらう代わりに
悪いこと教えたり(笑)するのだ。

コロッケを食べつつふと思う

2006年01月14日20:07



あれこれと失ったり捨てたり、してきたが



その分得たものがあるはずだろうけど



まだ見えてこない。



どれくらい自分と向き合い、歌にしてゆけばいいのか



まだまだ空白感を埋めるには足りていないのかもしれない。



現実の苦悩と創作の高揚



ゆるやかなバイオリズムをやり過ごしながら
またこうして日が暮れてゆくのだけど。



波の底で、コロッケを喉に詰まらせそうになりながら



ぐっ、とこらえる。



いつかは過ぎる哀しみも



やがて寄せてかえす、優しい涙。