2010年11月30日火曜日

そだてる難しさ

社会的状況とかその他何らかの軋轢などに、押さえ込まれた経験があればこそ

芯とか姿勢とか己とか個性を、自分の中ではっきりと確立できるのじゃないかなあ。

親に食べさせてもらっているひとが「それが自分のやり方で人生だから」とか言ってもねえ。

それは子供の自主性とは別の問題。



世代的に子育てとか子離れとかで悩む人が周囲にいたりするのでそんなことを考えてしまった。

知人男性のとこに下宿している姪御さんがホームシックというか大学の勉強がハードなのと

環境の変化についていけなくて実家のお母様に泣きながら電話するのだそうだ。

「出来るだけ会話をしてあげて下さい」と彼にとってのお姉さんからのお達しという事で

なんだか大変らしい。けど根本的に何かがずれているような気もしなくはない。

学校などの関係でどうしても親の庇護下になるだろうけれども、それにしても精神的な成熟が

遅い傾向があるんじゃないかと、これまた別の知人(専門学校講師)から伺った。

それが原因で退学とかも多々あるらしい。つまり上記の姪御さんのような理由で。

そして「はいはい」と辞めさせる親も不思議だなあという話になった。


混沌とした社会情勢、猛スピードで日々変化し目まぐるしく錯綜する情報、その中から子にとって有益なもの

守れるものを探さなければならない労力と、それ以上に自分自身が同じ年頃に経験した事が

今のわが子にとっては役に立たない部分が多いという事。

結果脆弱にならざるを得ないほど大事にしすぎてしまうのも判らないでもないけれども。

生きる力を備えさせるような育て方、というのは難しいのだろうか。

2010年11月28日日曜日

いつか帰る陽だまりの場所

そこは日のあたる部屋で、階段と壁の間の隙間に

肩寄せて座って笑っている。隣に座る人の顔はわからなかったけど

幸せ、というのはこういうことなんだなと思った夢。



夢の通りにいく人生などない。

けれど最後はきっとあの夢の中へ

帰っていけるんだと思って生きている。


尽きるまで歩き通してみせる。

だから、待ってて。

あの暖かい場所で。




2010年11月27日土曜日

いもづる式でハマる

何か一つの、ちょっとした興味から更に根を拡げてゆく。

案外そういうパターンで物事を知ったり好きなものへハマっていったりする。

新しい事を無理に覚える、というのではなく興味を持てばどんどん深みに行くのは当たり前じゃない?

というB型的ノリで。


美術系の学校へ行っていた頃は、資料として買った本からがきっかけというのが多かった。

表紙のイラスト目当てで「日本の伝統芸能入門」とか買わなかったら、きっと歌舞伎や清元、浄瑠璃なんて

興味を覚える事もなかっただろうし、五行歌だってイラスト公募を探すために買った「公募ガイド」が

きっかけだった。そして五行歌を通じて知り合った歌友の影響で着物を着始めて、

その着物つながりでブログで知り合った方から「ヨミガタリ」などの存在を知ったのだった。


不思議とその時々でのめりこんでいたものは上手い具合に前へ進む道を開いてくれていたような気がする。

視野や道筋は自分で広げていくものだと思うけど、割合今は親御さんが子供に対して早いうちに

それを手助けしている部分がある。え?そこまで?というのが素直な感想。

関係ないけども「とにかく世渡りはうまくやれ」とよく母に言われたが上手くやれた試しはなかったw

それよりも実務的かつ生産性のある事を見て覚えた部分(料理とか)が今役に立っていたりする。


マニアというほど前傾姿勢でもなく気楽に楽しんでいるJAZZになじみが出来たきっかけは

スティービー・ワンダーの「Sir Duke」という曲からだった。

そこからデューク・エリントンを知ってCDを聴いて・・・という具合。

ミュージシャン同士の繋がりの幅というか、その関連から辿っていくと(共演とか録音の際の連名とか)

色々なスタイルがあるんだねえと知ることが出来る。

何か一つスタンダードな好きな曲があれば、そこから様々なヴォーカリストが歌うその曲を聴く事が

今はYOUTUBEがあるから簡単に可能だったりする。

アレンジの仕方でまったく違う個性であったりそんな妙も楽しめるし、更にそこから派生して・・・。

これは歌舞伎もそうで演目の「勧進帳」ひとつにとってもそれぞれの家の役者がやるのを比べてみると

古来からのやり方は同じでもまた表現されるものは違っていたりする。

優劣ではなくあくまで自分のフィーリングに合うものを見極め探すのは楽しい。

それこそフリースタイルで、マニュアルされたものに頼らずに。

「資料は人や図書館から借りずに買ったほうが身につくから」と専門学校時代の先生に言われた事を思い出す。

その頃から20代前半は軽く1~2万は書籍代に消えていたなあ、そういえば。

その頃身についたであろう何かは、目覚めてないのかなくなったのかは不明だけども。

2010年11月24日水曜日

Dear my next door boy

夢を夢のままにしておけば、終わらない別れもある。

そうして永遠に出会い続けるふたり。



2010年11月23日火曜日

天への想いも地の生き様も

美しい調べのみが高みとは思わないし、確かな現実こそが真理とは言えない。

お伽噺やファンタジーはむしろ好きな方。その裏に現実に生きているのと違わぬ真実があるから。



綺麗だけれど、届いてこない。

汚いからって届くものでもない。

それは何でだろうと考えたとき、テクニック不足だけではない気がするのだ。

その根にあるリアリティ。



キラキラと淡くまばゆく光る。しかし持てぬほど重いものであるかもしれない。

手垢にまみれて黒光りする。しかし割れば汚れていない本質を見出すかもしれない。

感じにくく見えざる部分を掴んでやっと、表現というのはできるのかもしれない。

これ、感性と言うより精神の柔軟性だろうなあ。

年々それも加齢と共に固くなるので、やはりストレッチは大事だ。

年甲斐なく生きよう。

2010年11月22日月曜日

おいでませ

におい、という意味が本来ある種の色を表す言葉だったという一節を何かで見て

あれこれ調べているが出自がわからない。

文字という形が大陸からやってくる以前の言葉はどんな多様性を含んでいたのだろう。



閑話休題。パーソナルカラー診断というのがある。

自分の肌や外観を引き立てる色彩を比較診断で探していくというもの。

私の肌はサマーカラーという種類になる。

それを日本の伝統色にあてはめて遊んでいた。

着物をよく着るのでこういう形のチャートが欲しかったし。


パーソナルカラー(伝統色)

中々当てはまる色使いがなくてちょっと苦労した。

着物でも顔に近い部分に(半襟など)持ってくると映える。

好きだけど合わない色なら下の方、帯や小物で合わせてもいい。

見てわかるように色ひとつとってもなんと豊かなニュアンスの日本語だろう。

2010年11月21日日曜日

No title

野菜

コラーゲン

お金



そして一番足りていないのは

色々な意味での

覚悟だ。


Addictive music

心地いいと対極に自分にとっての中毒性がある音楽もいくつかある。
共通しているのは精神的にロック以上に高揚していくというか。


MySpaceを発見したので本気でわたしも登録しようか大いに悩んでいる。
マドンナとのLIVEでのフューチャリングはこちら。これも見応えあり。
http://www.youtube.com/watch?v=JbDbBal53ig


ギターを弾けない私でさえも「これは凄いのでは・・・」と思ってしまったテクニック。
wikiで見たらばやはり凄い人らしい。→Al Di Meola
思考を止めて音だけ追いかけていくとなんとも心地いい。


これこそ中毒性の最たるものだけども。
Capsuleは日本の音楽ユニット。そのメンバーの中田ヤスタカ氏はPerfumeのプロデュースも手がけている。


北谷栄口青年会のエイサー。この青年会の唐船ドーイがダイナミックでまたいい。

2010年11月19日金曜日

Letter

東京も寒いでしょうね。

とはいっても貴方の周りはいつも賑やかそうだから

寂しくはないでしょう。

次から次へと景色が目まぐるしく変わる日々を過ごし

夜はきっと裸の自分で一息つけている頃だから

長々と書くのはやめにして、貴方の好きそうな曲でも聴いて眠ります。



今年も僅かですが、いつもの自家発電の推進力で走って行ってくださいね。

無理せず、あせらず、楽しんで。


ではおやすみなさい。

2010年11月18日木曜日

青春と歌声と

高校のとき1年間だけ合唱部にいたことがある。

もともと好きだったのもあるが、しかし高校自体が新設校だったせいもあって

部員は私と同級生の女子とふたりだけwという合唱というよりデュオ状態だった。

それでもローレライとか子守唄とか、今ではもう思い出せないがスキャットか何かを

練習した記憶がある(一応顧問の先生もいた)。

その後美術の先生に誘われ美術部に行ったりもう1人の子も帰宅部となり部自体はなくなったのだけど。



「天使にラブソングを」の劇中歌でおなじみの曲。

ハイスクールのクリスマスコンサートでコーラス隊が超ハイテンションで歌って?おります。

真ん中の男声部隊に注目。指揮の先生もハッスル。

ちなみに発表会などではちゃんとした合唱を披露しています。きっとクリスマスだからこうなのかとw

しかし学校ならではのお祭り騒ぎって独特の感慨があるなあ。

2010年11月17日水曜日

No title

何となくであるけど、地球の真反対や同じ国の違う街のどこかに


自分と似たひとがいる気がする。

持っている物より持たぬ物の方が多く

たどたどしく生きている、そんな誰かの為にだけ

私の歌が存在していたっていいよなと思う。

それだけの為に



今日もたどたどしく生きている。

2010年11月16日火曜日

どっちなのだろう

全国区になってきた(大泉洋のお陰で)北海道弁の「なまら」

あれは副詞扱いになるのだろうか。ちなみにしょこたん語の「ギザ」は接頭辞なんだそうだ。

強調なら同じ副詞扱いでいいような気もするけど。でも「超かわいい!」とかあるし。

新たな文化から派生された言葉って文法では計りきれないねえ。

ああ、こういうとき日本語を研究していた歌友がいないのが惜しい。


昔勤めていたデザイン事務所の上司の5歳のお嬢さんの口癖が

「ちょーなまらむかちゅくー」だったのを「それじゃ言葉の意味がダブらないか?」

と、お父さんが嘆いていたのを思い出した。

ともあれ、「うるかす(ふやかす)」「よしかかる(寄りかかる)」「まるまんま(丸ごと)」が

標準語じゃない事に衝撃を受けています・・・・。

2010年11月15日月曜日

活字に触れる、歌に触れる

「~の世界」とか「まさに~さんらしい」とか一括りに評価されるのって

本当に好きじゃないんだけど、先月の歌会の際ふとなんとなく自分の歌って

ジャンルがあるとすれば「もしかして・・・ヨゴレ系?」

と思ってしまったw

いや、それくらいきちんとした歌というか、四季を愛でもののあはれを感じ、という綺麗な歌が多かったので

久々に参加してみて今まで気にした事なかったことが妙に気になったんだった。


現在の札幌歌会では、五行歌を始めたばかりという方も多いと聞く。

これからどんな風に変化していくのかが興味深い。

同じ秋の情景を詠んでいても、この方は楷書風、あの人はボールペン字風、絵手紙風などなど、一人一人タッチが違う。

さらに、自分の内面を投影させていたり、お孫さんやお子さんが登場するスナップのように

表現されていたり、心象的に何か木や物をクローズアップしていたり、アプローチの仕方も様々だ。

これは本誌をしげしげと眺めている以上に、実際の歌会に参加してみると、歌そのものの

輪郭がぐぐっと前面に出てきてすごく分かる。多分本誌を読むより「歌」そのものに

触れているんだという実感がある。



作者本人から伺う雰囲気や味、空気感もその歌に対する感じ方の要因に含まれるからかもしれない。

むつかしいのだけど、活字だけでは「香り」は感じても「匂い」まではわからない。

「手触り」は分かっても「体温」までは難しい。



そういう意味で本誌の作品評や書評は本当に難儀する。

評をしてても「これって自己満足?」と振り返る瞬間がある。

��00%自分の感性になんて自信も責任も持てないから、脳の別の部分も使ってあれこれ思索するのだけども。

なるべくなら誇大感動成分は自分の作品にだけ使いたい。

耳障りがよくとも作者の薬にもならない事を言うのもどうかと思うし、何より評することの横着にしかならない。



とかそういうことを考えつつ入浴にいってきます。

しかし、ブログ作ってから妙にマメに更新しているな私・・・。

星に願いを

何も願う事がないことに気がついた。

そして叶えたい事も。

きらきらと輝いているだろう友たちの顔を思い浮かべながら

穏やかに夜空を仰ぐ。




2010年11月13日土曜日

LoveSongs


この人たちの「瑠璃色」という曲が好きなんですが、これもいい。
そう、愛で傷ついたっていいんだよね。







ベタですがこれも好き。衒いのない甘々加減。










かつての純粋さを思い出す自分の心がすごく穏やかなことに気づく。
こうして過ぎ行く事に慣れていくのかな。

2010年11月12日金曜日

秋の名残


日々「在ること」のうつくしさを

瞬間はいつも目覚めさせてくれる。

ケーキは2個まで

たまに歌会とかでも、全ての行に決め手となるような凝った表現を入れて

フレーズの羅列のようになってしまい、「思い浮かんだ言葉を入れたら、選びきれなくなって・・・」

という事を伺うときがある。


歌じゃないけど、これすごく共感できるのだ。

例えば・・

ケーキ屋さんへ行って、ガラスの陳列棚の向こうには、美味しそうなケーキがいっぱい・・・
チーズケーキもガトーショコラもミルフィーユも、ああ!どうにも選びきれないわぁ~!
えーい箱に入れられるだけ買っちゃえー!!


みたいなw

ふと思いついた素敵な言葉って宝石のように輝いて見える。

で、案外そういう時ってたくさん浮かんだりする。

これを使えばどんな綺麗な歌になるだろううっとり、と思う前に

このケーキの例えを思い出す。


箱に入れられるだけ・・・ったって胸焼けしちゃうわねぇ。
ちょっとだからこそ甘いものって美味しいのよね。
ここは断腸の思いで(大袈裟)2個くらいに抑えとこうかしら?


言葉はケーキと違って腐らない。

だからとりあえずしまって、暫くしたら眺めてみて、それでも輝きは変わらなかったら

使ってみるのもいい。

ちょっと控えてこそ伝わる思いもある。

見えない部分は読み手の領分だ。書き手と読み手の相互があって歌は成り立つと思う。

2010年11月11日木曜日

ずっと傍流

あまりそういう区分けは無意味であるけども

昔よく、アウトサイダー・アートなど見るにつけ「ああーこれは絶対敵わんわ」と思った。

それに刺激を受ける以前に自分の画力に萎えてしまったからこそ、すっかり描く事から

遠ざかってしまったのだけど。


不思議と今、五行歌などやっているけども、絵を描いていた時の迷いは一切ない気がする。

あてもなく叫べる自由、でも誰かが、耳を傾けてくれる事を少し期待してる。

詩歌の歴史はわからないけど、でも何か、伝えたいことがある気がする。

そういう人の方がきっと多いはず。

絡まりあった傍流の太い流れが、五行歌なのだろうか。

2010年11月10日水曜日

思ったとおり

「か」の字もございません。どうだ!(誰に言ってる)


Good night serenade

短夜の 星の震える音を聴いてる
君は誰 誰だろう

君の囁きをなぞるたび
忘れていた強さ思い出し
自分らしい息の仕方取り戻し
僕は歌う また歌い始める

ふたりで仰ぎ見る
嵐の後の空
波打ち際に打ち上げられても
手はつながったまま
おやすみを言う前に
半音ずつ 指を下ろして
確かめ合う
離れていても奏でる想いはおなじ




セレナーデって元はドイツ語だったんだねえ。
雰囲気的に歌だったら2番がありそうですが割愛。

妄想であれ何であれ形にしては逃げ場はないですね。
これは感じ方それぞれだけどたとえ妄想がきっかけだとしても
「妄想なんです♪」という風にてへっと笑えない。
だって形にしない前段階が一番気持ちいいじゃないか。
形にした段階で「ふう・・・」みたいな醒めたような感覚がたまらなく寂しい。
そしてイタくもある。我ながら。
でも、そのイタさ寂しさこそが、モーレツに歌じゃないか?と発見した。
結構こういうほぐし方で己を解放しつつ再確認してたりするのだった。

2010年11月9日火曜日

#



No title

子供の頃の休日のドライブ、車の中BGMにかかっていたカーペンターズ。

見上げれば青空で、道はどこまでもまっすぐで永遠に続くかと思われた。

あの頃のような青空を、もうしばらく見ていない。


あてもなく、またあの頃のような青空を見せてくれるひとを

ずっと探しています。

探してばかりいる一人旅です。




どうもどうも

再びの「歌ほぐし」


鍵盤を鳴らすように
その指で
まだ
君を
眠らせたくない


私のことですから色っぽい方面にほぐれるはずもない・・・w

まあこつこつ行きます。どんな物語になるやら。

思うに妄想とは、妄想として割り切るというか「おもいあそび」として

自分の内でふやふやさせているうちは、なんと楽しく健康的(精神にとって)なものかと思う。

2010年11月8日月曜日

言葉にして事なきを得る

人は核心を突かれると、本音を濁してしまう。

言葉にすることで発散もいいけれど言葉だけが全ての出口な訳ではない。

さらけ出せも出来るけど綺麗に隠す事も出来る言葉というもの。

たぶん言葉だけではなくで自身の実人生のあり方にも深く関わってくるわけで

本当に伝えたい事表現したいことであれば、飛ぼうか飛ぶまいか、進むか止まるか

迷い悩むより先にプライドなんていとも容易く越えられる。

No title

多分自分がこれほど迷うのを好きではないのは

世の理、当たり前の事、うつくしい瞬間、暖かい思いやりなどなどを

迷うその間に見過ごす事が嫌なのだ、というより見過ごしてはならないと思ってしまう。

数々の恩義や善意の手を振り払い、足蹴にして、捨てていったものはやまほどある。

踏みつけにしたすべての体温はまだ私の足裏に残っている。

それを引き換えにしているからには迷っている場合ではない。

どう頑張ったって人と人は迷惑を掛け合う生き物ならば

これからどれだけ浚われ奪われ裏切られようとしても

許し続けていく。

きっと見えないところで自分も同じことをしてきたのだから。




2010年11月7日日曜日

そうなのよ

何というのか、人それぞれの思いを認め合うというのは

突き詰めると「肯定」「否定」とかをずっと越えた先にある部分だと思う。

その思いを肯定する、ということではなく、対等とか平等に近いニュアンスではないだろうか。

うすらぼんやりと思っていたのだけど、認め合う=肯定と考えていると

ものすごく否定される事に過敏になりすぎる気がする。

それでは自分の思いすら平静に見つめられないし、肯定否定の視線は必ずしもその対象を

正面から見据えない。大抵上か下かだ。


十数年前に全国大会に出した歌を「あの歌は好きじゃない」と言われた時、漠然と「どこが好きじゃないんだろう」と

頭の隅で考えつつ時が経った今、なるほどなと判った。

多分今の私でもあの歌は好きじゃない。

大した事ない辛さでも大仰に書かねば耐えれなかった部分もあったけど、その大仰さが

五行歌っぽくても「クサすぎる」と感じたのだろうか。

言い切り型ゆえの、否定すらさせないほどの「そうだろ?」的な力。

読む側が思いを馳せる隙間すらないというのは、きっとその方にとっては歌ではないのかもしれない。

時を重ねて否定を超えて目線が対等になった瞬間だった。


ああ、歌ってすごい。

進むのを止めさえしなければ、あらゆるものが見えてくる。

2010年11月5日金曜日

見えない部分が結構凄い

何気ない言葉でも実はムキムキしているというか

「見た感じか細いのにふくらはぎ凄くない?」みたいな(違うなw)

自分の言葉に筋力がつけれればいいなあと思う今日この頃。

ゆるゆると今月の本誌感想ですよ。



甘雨さんの巻頭。

草木を潤す雨という意味なのだ、いい筆名だと思いきや日本酒の銘柄にも同じ名があるそうです。

交じり合っても濁らぬ愛。

個々が自立というか芯を持ってしても難しいけれど、互いにリスペクトする姿勢が大事なのかなと。



悠木すみれさんの特集。

シチュエーションは違うのだが「ヨイトマケの唄」を凄く思い出した。

巻き寿司の件なんかきゅんとくる。



樹実さんの佳作。

極限の旅。たしかに人の営みは酔える余裕があるのだよね。



また気がつけば追記します。

2010年11月4日木曜日

問い

私はこう!と思っていたものを打ち砕かれた事はありますか。

その粉々をやさしく振り返るように、許せない何かをあえて見据えた事はありますか。

そこから掴めたものはなんですか。

強さ弱さ、己があるかないか、それとは関係なく「掴めた」人だけを私は信じる。

ためしに心底自分を嫌ってごらん。まずはそこから。




十数年前の曲だけどなんて新しい。

2010年11月3日水曜日

いつからの時代が正しい日本語なのか

自分自身の思いを表現するなら、日常に息づいた今の言葉を使う。

逆に生の暮らしから遠ざかって、その音や調べ、叙情を楽しむという意味では昔の文部省唱歌など

しみじみと鑑賞したりするにはこの頃の時代の言葉回しが馴染む。

冬景色、という歌が凄く好きで鮮やかなほど情景が目に浮かんでくる。

一、
  さ霧(ぎり)消(き)ゆる湊江(みなとえ)の
  舟に白し、朝の霜(しも)。
  ただ水鳥の聲(こえ)はして、
  いまだ覺(さ)めず、岸の家。
二、
  烏(からす)鳴きて木に高く、
  人は畑に麥(むぎ)を踏む。
  げに小春日(こはるび)ののどけしや。
  かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
三、
  嵐(あらし)吹きて雲は落ち、
  時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
  若(も)し燈(ともしび)のもれ來(こ)ずば、
  それと分かじ、野邊(のべ)の里。


現代に生きる我々には逆に現実味が遠い情景かもしれないけど、それでも故郷への望郷のような

懐かしさを感じさせてくれる。



よく日本語が乱れた昨今・・・とか耳にするけど、個人的に思うのはいつの時代を基準に「乱れた」「壊れた」と

なってきたのだろうという事。

新しい文化や情報の付属として派生していった部分があるなら、それは壊れたとかいう表現ではなく

言葉の変化のスピードがあらゆるものの多様性と共に累乗していっているから、その速さについていけなくなって来ている部分なのかもしれない。


こちらのブログを見つけて興味深く読んだ。http://memo.hirosiki.jp/article/37853977.html

そこから抜粋したのがこの一文。そうだよなあと思う。

そもそも、美しくなければ愛せないという感覚がどうかしていると思う。
美しかろうが美しくなかろうが、そのことばで育ったのならそれなりに活用して生きればいい。
ほんとはそれこそが「母語を愛する」ということにつながると思う。
ことばは、日々新しいものが生まれて日々古いもの(語弊があるな)が消えていくけれど、変化しながらダイナミックな営みが続けられることばは生き続け、人間の生を編んでゆく。
ことばはいきもの。生きているということは愛されているということだ。
別に美しいかどうかなんて関係ない。



祖父母に育てられたのもあるせいか、今の時代では使わない言い回しを私自身よくする。

ハンガーを「衣紋掛け」美容院を「髪結いさん」あとは「天花粉」か。

時々口に出ると「今の時代に・・・」とは言われるけど(しかも結構高齢の方に言われるのが癪だ)、これは古い言い回しが好きとかではなく

私にとっては自身の人生に添ってきた生(なま)の言葉だからである。

時代を超えたリアリティな温みをこの言葉から感じて、きっとこれからも使い続けるのだろうなあと思う。

2010年11月2日火曜日

考えても謎な思い出

裏側の投影ででも書いたけども、当時居候していたというのが母親の彼氏?(というにはトウの立ったおじさんなのだけど)

遠洋漁業の仕事をしていて陸に上がれば常にゴロゴロしている人だった。悪い人ではないのだけど。


ある時学校から帰ってくると、知らない人数人がうちの中にいて、何やら談合中。

余りの謎なシチュエーションにその後ろでつったったままの小学生の私。

そんな私を一瞥し、それでも談合は数分続き、しばらくして一斉に立ち上がりぞろぞろと引き揚げた。

そして取り残された私。

怖いとかそういうのではなく「何なんだ?あれは」という疑問符だけが浮かんでは消えていた。

リアルでシュールで暗示的な夢を見ているような出来事だった。


後から聞いた話によると、その彼氏の別れた奥さんのご兄弟の方々だったそうで(ええ、赤の他人です・・w)

相続がらみのことで何やら話し合っていたとのことだったが、未だにわからないのは

何故わざわざ別れた旦那が居候している女の家でそういう話し合いをやっていたのだろうかということ。

結局そういうことも含め色々あって別れたのだが、確か37~8くらいだったかなうちの母は。

一回り以上年上だった気がする。そういう女の時期だったのだなあと思う。



普通に恋をして、一緒に幸せに暮らすということは

簡単なようでいて何と難しい事か。

しみじみ感じ入った11月。

独白と伝達と

自分のブログを読み返して気がついたけど、もの思いジャンルの独白に近い内容は言い切りに、

伝えるという前提であれこれと書く場合はですます調になっている。

考えてるのか無意識なのか?


自分の背丈と寸法でしかものを考えていくしかないんだわー何事も、と思ったときから

わりかし楽になりました。こういうブログなどのツールで発信していくという事に。

もちろん想像力は必要だけども。

これを思うたびチャップリンは本当にいい言葉を言ったものだなと感心する。

何もかも上手くいかなくても、これさえあればまた立ち上がれるかもしれない。

実際、どうにかなったもの。

2010年11月1日月曜日

お邪魔したりお邪魔されたり

左バーにあるジオターゲティングというブログパーツ。

全国からのアクセス数の推移をグラフにして毎日更新されてるのですが

北海道が多いのはmixiリンクや主に私からのwアクセス。

東京とかだと歌友か、そのほかだったら五行歌関係のリンクからだったりツイッターからだったりするのかな。

案外あちこちから訪問者が来てるのだなあと思う。

なんだか初めて来ていただいた方に対して、うっかり足を踏み入れたがこんなブログですいませんとも思う・・・w

結構お気に入りのブログが同じFC2ユーザーさんであったりして、訪問者リストにお名前を発見すると

嬉しい反面冷や汗ものであったりする。

昔から自分が「コレ好き!」って興味を覚えるものと、自己表現する際の方向性にぶれがあって

よくそれで「こんな意外な趣味があったのね!」とか驚かれる事も多々あった。

たぶん辿ってこられた方も「こんなブログを書く人がなぜうちに・・・」と思っているのかもしれないw




で、今更ながらカテゴリーの説明でもここに記載しておきますです。


五行歌について
始めて十数年、ほぼ日常と化した五行歌についてのゆるーーーい考察。
自分の意識の確認がてら書いているので、どうか余りあてにしないでください・・・w
五行歌正式サイトに掲示板があってそこに創始者の草壁主宰が、折に触れ言葉を綴っているので
そちらを覗いてみたほうが正当なもの思い論を垣間見れるかと思います。


もの想い云々
これも日常化している、自分の心と向き合って生まれた様々な考察。
ここに書いて客観視している事で、実際思い出し笑いする変なおばさんになるのを
防いでいる(防げてないかも)感があります。
とにかくニヤつくほど思索が好きなのでこのカテゴリー記事が多い。


本誌(あくまで)感想
毎月購読している月刊「五行歌」に掲載されてる作品のうち、自分的に心に残ったいくつかの
作品への感想。褒めも貶しもしないけど、これもまた思いに向き合う学び。
書店には置いてないのだけど、購読は出来ますので五行歌正式サイトのリンクから
興味持たれた方は申し込んでみてくださいませ(宣伝、宣伝)。


ゆるゆる歌作
自分が歌を作る上で思うことや工程などなどを忘れないように(忘れるんだコレがw)
書き留めている。自分なりの方法や自作での実験みたいなものもある。メモ的意識で書いてるので
大したことは書いておりません。
そう、人様の作法はあてにならぬものでございます。(なぜか太字にしてみる、そして敬語)



日々(ダメダメ)
デフォルトな私の日常ですw基本ドンくさ子ちゃんなので・・・。


日々(そこそこ)
思うにそこそこなことって一番平穏なんじゃないかしらと思うこの頃。


このブログのこと
当ブログの説明でございます。


Music in my life
好きなジャンルの音楽やパフォーミングアートなどなどを綴っています。声というより
ハーモニーフェチなのかもしれません。JAZZ率高し。


ことばの快感
日頃手慰みの言葉やつっかかった文字などについてあれこれ思うカテゴリー。
なれないだろうけど言霊使いへの終わりなき道。


楽しみ下手同盟
1999年から十年近くハードでタフな歳月を生きてきたのですが、そういうのが垣間見えるかと。
mixiからの転載。


まだ記事にしてないカテゴリーもあるのだけど、なんとなくずっと挙がる機会を失いそうな気がする・・・。

カフェとかうちごはんとかは多分ツイッターでつぶやく事が多くなるでしょう。

No title

五行歌の話はどうしたのかと思われても、懐かしさに奔る心は止まりません。

ちょうど中学~高校時分はバンドブームで、今とはちょっとまた違った盛り上がり方でした。

何というかパワーの質が違うというか、芯が重いんですね。
















数々のこういう歌を聴くたび、紙の上の二次元の薄さを思う。

と書いて気がついたが、たぶんこういうライヴ感の躍動とか体感を

リアルに表現したいというのがあるのだなと思った、自分自身。

見たところ文字は文字でしかないんだけど、受け手の心に瞬時にどぎゅん、とまで行かなくとも

後からじわっとくるような。

Singerの
つたう額の汗が
私の心を滑り落ち
あなたの
瞳を揺らがす


むちゃくちゃ書いてるなーと思いながらやっぱりNokkoの変わらない歌にうっとりするのだった。