2011年2月28日月曜日

しまいこんでいた羽を広げて

自分の身の回りを綺麗に正したり、外から中を豊かにする

という時間の余裕と機会を楽しめるのが人よりかなり遅かった。


その理由をここで言うと結果身内の悪口や愚痴にしかならないので割愛。

味わい損ねた何かを、甦らせてくれる愛らしいものとか歌とか

そういうものに出会える今だけを感謝しよう。

もう飛べない羽だけど

飛びたかった夢を思い出させてくれることを。




Hey there, Georgy girl
Swingin' down the street so fancy-free
Nobody you meet could ever see the loneliness there - inside you
Hey there, Georgy girl
Why do all the boys just pass you by?
Could it be you just don't try or is it the clothes you wear?

You're always window shopping but never stopping to buy
So shed those dowdy feathers and fly - a little bit

Hey there, Georgy girl
There's another Georgy deep inside
Bring out all the love you hide and, oh, what a change there'd be
The world would see a new Georgy girl

[Instrumental Interlude]

Hey there, Georgy girl
Dreamin'; of the someone you could be
Life is a reality, you can't always run away
Don't be so scared of changing and rearranging yourself
It's time for jumping down from the shelf - a little bit

Hey there, Georgy girl
There's another Georgy deep inside
Bring out all the love you hide and, oh, what a change there'd be
The world would see a new Georgy girl

Wake up, Georgy girl
(Hey there, Georgy girl)
Come on, Georgy girl
(Hey there, Georgy girl)
Wake up, Georgy girl

2011年2月27日日曜日

日常的習慣だからか

あれこれ今日はハンズに行ったり(あそこっていつも行くと軽く1,2時間は経過するワンダーランド)

工作っぽいことをしたり(ツイッターをご参照ください)

なのに何故か腰ひねったり、もう夜はまったり過ごそうと思ってはいたけども

何となくいつものように思索モードになっている。



自分の歩幅と寸法で行くしかないのだけれども

ふと立ち止まってもの思う。

時間と共に流れているきらっとした様々なもの

きっと掴めているのはほんのささやかで



あらゆる出会いも別れも、それが自分の元に巡ってきたなら

それもかけがえのない必然。

いつかもっと強く優しく受け止めて見送れたら

自分の世界はもっと暖かく大きく広がっていけるはず。

その時まで歩き尽くそう、こころも言葉も。




だって、もう、こっちの道を選んじゃったんだもの。

書き始めの時に書いた歌で


何千
何万と
線を引く
どの一本が
私の道か

というのがある。

たぶんその混沌や葛藤の中の一本を

とっくのとうに歩いているのかもしれない。

2011年2月26日土曜日

長い待ち合わせ

ふと思い出したことがあってmixiの昔の日記を読み返してみた。

2006年01月30日に書かれたもの。

若干修正して記載してます。

運よくここのブログを見つけてくれればいいなと思いつつ。




************************************


中学からの付き合いの友がいて、

特に神経質ではなかったけど

優等生気質で頑なほどのこだわりを持つ人だった。



そんな彼女はかなりの遅刻魔で

あれこれと準備に悩みすぎて遅れるのだそうな。



まただよー、という感じで慣れたものだったが



そんな不器用な彼女は、大学を卒業し職を経て恋をして



あまりにも生真面目に、親への負担に負い目を感じ



やり甲斐なき激務と向き合い、



破綻した男性との関係に疲れ



心の重い風邪をひいた。



数年前久々に会った時は、お薬のせいか、かなりハイテンションで



ごめんねぇ、これでも抑えてるんだけどねー



と、大声でこれまでの事を話し始めた。

母娘の関係の歪みも原因のひとつらしい。



私は私でそれなりの葛藤は母親に持っていたし(母子家庭って難しいんです)



ここで自分が壊れたら、負けだし惨めだというのがあったから

どうにかなれた(のか?)というのがある。



でも彼女にそうなれと言っても無理な話なのだ。



その時私が悔いたのは



たかが遅刻で、あんなに責めなきゃよかったと



思えばあれが彼女の安全弁だったのだ。



その後、理解ある男性と巡り会い、徐々に快方しているという。



一昨年年賀状がきたきり連絡はなくメールの返事もない。



大丈夫だと思いたい。



単にあれこれしてる内に忘れてるだけだ。

いつもの遅刻のように。



でもそれでいいんだよ。



貴女が前へと進みづらいなら、過去も昔の友達も全部忘れたっていいんだ。



私は忘れずにいるけどね。



振り返ればそこに在る

いつもの場所で気長に待っています。

旋律のつぼみが開くような

なにげにテンプレ変えてみました。

横っちょのプラグインなど結構見やすいかと思いますがいかがでしょうか。


さて、「歌を聴くぞー」という時はヴォーカル&ハーモニー重視!なのですが

いくつかあるきっかけの一つに昔TVコマーシャルで知って(20年以上前だった・・)

「これ、人間の声なの?」と驚きつつマキシシングルCDを買ってしまったのがこれ。




ブルガリアンヴォイスである。

とにかく聴くだけでアルファ波に包まれるような恍惚感。



伝統的な民族衣装もチャーミング。


あと去年末に知ったVoice Male。



「天使にラブソングを」の挿入歌を探して偶然見つけたのがこのネタっぽいやつw



しかしすごいクオリティなんである。

普段自分のリズムとか呼吸を意識して言葉と向き合っているけど、たとえばこういう

一人ではない声や呼吸の連なりから生まれるうねりの力に、改めて自分の立ち位置を思ったり

閉塞感やちりっとした焦燥感をさっぱりすっきり洗ってくれたりする。

Harmony.

私もその花びらの一枚になったかのように

何かを生み出せればいいなと聴くたびに思うのだ。

2011年2月24日木曜日

案外と

左脇のツイッターパーツをご覧の通りだったんですがw

サンボマスターのですね、アコースティックLiveの再放送&3月23日「サンボマスター 究極ベスト」発売の

プロモーション(スケッチブックフリップを使った本人たちによる熱いプレゼン・・・某通販並みの

宣伝能力でしたw)をUstで見ていて、あまりの豪華特典(シングル、新曲、未発表曲も含むベスト二枚組&

初回盤にはPV&Live映像もついちゃうという)で思わずAmazonで予約をしてしまったという・・・。


でも改めて思ったんですが、Ustのアピール力というか。

プロダクション主導の宣伝よりもずっと作り手の体温や情熱、コンセプトが明確に伝わってくる。

企業によっても微妙について行ってこれないか、いい感じで柔軟に活用しているか結構分かれてきているのではないだろうか。

大手の音楽プロダクションだと媒体として本格的に導入するのに逆に難しい部分もあるのだろうか?

そこらへんは疎いのでよくわからないのだけども。


生Live至上主義という人もいるけども、個人的にはUstLiveは歓迎派。

働きづめで会場に足を運ぶ暇や体力や気力がないけども(私も含め)それでも生音に触れたい

生に近い躍動感を感じたい、そういう部類の方が今の時代には多いに違いない。

必ずしも生Liveから足が遠のく、ということはなくこれをきっかけに「じゃあ、がんばって

生も見に行ってみるか」というきっかけだってある。

便利なツールは溢れかえっているくらいなのだから、お手軽とか臨場感がどうのこうの以前にその媒体に

大衆を惹きつける魅力と実力があるかどうか見る側だって判別している。

i-tuneだってそう。データで済む音楽ならそのまま購入するし、今回の特典がつくにしても

CDでしか味わえない何かを(こう書くとつくづくCDってアナログになりつつあるなーと実感)

求めて買いに来る人もいる。本当の付加価値ってそういう見えない部分だし、彼ら自身も

それに賭けているし伝えたいんだなあと思っているに違いないのである。


そんな訳でちょっと考えていた来札するあるグループのLiveは見送らせていただくことになった。

惜しい・・・けど悔いはない。その日は他にも立て込んでいるし・・・と慰めつつ

どうもかたじけない、すいません・・・←誰に謝っているのw

2011年2月23日水曜日

突発的九ちゃん強化記事

どんな守備範囲なんだと思われても好きだなあ。

子供の頃札幌で放映してた「ふれあい広場・サンデー九」を確か前番組がドラえもんか何かで

その続きでよく見ていたので「さわやか笑顔のパーソナリティのおじさん」という印象だった。

歌手のチャリティーショーの先駆けみたいな感じだったのではないだろうか。

この方が生きていた頃は「24時間テレビ」も身近な福祉の懸け橋に思えた。




��0代前半、エンターテイナーとしての成熟度が今とは全然違うのだなあと思う。

「ものすごいアイドルだったんだから。今のジャニーズなんかとは違うんだから!」と

ほぼ同世代の母がよく力説していた。

日本語と英語のマッシュだけど何てお洒落に聞こえるのだろう。




初めて見たり聞いたりした人にも「心底楽しそう」というのが凄く伝わってくる。

そして「元気を出せ」と簡単に励まさない。

悲しみの重さを慮りつつ「幸せは空の上にあるんだから、上を向こうよ、僕も付き合うよ」と歌っている。

私を含め見上げることの多い人間の心に、今もなおそっと寄り添ってくれているのである。

2011年2月22日火曜日

「ちゃん」づけ「さん」づけその他呼び捨て

その人の印象や立場によっても変わる呼び方「ちゃん」と「さん」

会社でもそんなに接点のない上役や上司からは苗字の「さん」づけ。

直属の上司や年上の同僚、親戚からは名前の「ちゃん」づけ。

友達からは中学高校までは「ちゃん」づけ。それ以降はなぜか名前の「さん」づけ。

行きつけの古着物屋さんもイベントで知り合った知人や歌友も同じく

年齢関係なくたいてい「詩乃さん」。

昔専門学校の友人とそういう話になって「詩乃さんはさん付けが似合うからかな~」と

言われたのを覚えてる。(ちなみに彼女からは初対面の時すでに「あ~よろしくね詩乃さん」と呼ばれた。)

ずっと言われ慣れてしまっているので逆に「ちゃん」づけだと戸惑ってしまいそうだがw

やはり個々のパーソナリティによってイメージとして定着されているのもあるのだろうか。

関西圏の友人からは「あんた」とか「自分」不思議なもので全然不快にならないのが

さすが関西ニュアンスなのか。

呼び捨てはまず、ない。

昔は結構「呼び捨てなんて・・・」と思っていたけども呼ばれ方なのだなあと最近気づいた。

上から目線か愛情がこもっているか、それぞれ。


自分から誰かだったらどうだろう?

その人に馴染むまで「ちゃん」づけとか愛称とかで呼ぶのに時間がかかる方かもしれない。

特に同性。もしくは勝手に自分だけの呼び名で呼んだり(名前覚えるの苦手)

引っ込み思案かなんなのかよく自分でもわからないけどもw

ちなみに男性に関しては意識して「ちゃん」づけはしないようにしている。

誰だか「たとえどんな可愛い系の男にそれは良くない。」と言っていた気がするので

なるほど、と思い殿方への礼儀として「さん」か「くん」づけである。

そして勝手な呼び名をつけたりw←これは男性の方が寛容かも。

2011年2月21日月曜日

No title

前記事でふと思い出した映画がある。

娯楽物とは違う、見る者の深層に語りかけるような世界観の映画を初めて見たのは十代の終わり頃。


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ゲストとしてピーター・フォークが出ている。

サーカスの舞姫に恋をして、ベルリンに人間として降り立った主人公の天使。

今までモノクロの映像だったのが、その時に色彩あふれるカラーの世界に変わる。

そこかしこに叙事詩のようなイメージが投影されていたり、苦しみや悲劇の中でも

生きていることの救いのようなものが作品を通して伝わってくる。

この映画に触れるように誰しも救われたい思いを抱えている。

それを感じ取れる一片が、詩だったり歌だったり、生き暮らすことの様々なことだったり

するのだろうなあと改めて思う。

そして今自分がやっていることのあれこれも、きっと意味があるように思えて

また進んで行けるのだ。

こそっとハスキン強化記事

はるか前に解散してしまったのでこっそり強化記事にします。

ヒットしたこの曲から知ったクチなのですが、ヒリヒリしない、でも感傷的でもない

どこか叙事詩的で、でもロック。その混ざり具合が不思議と心地よかった。



mixiとかのコミュ以外で「ハスキン好き」な人ってまずお目にかかったことがないのがサビシイ。

札幌にもけっこう来てたのねと知ったのは解散後の事だった。




もうひとりのボーカル平林さんのこの声がメロウで磯部さんのぱさっとした刺さるような

��ナイフとかじゃなくフランスパン的な硬さ)声といいバランスだった。

そしてハスキン好きなら必ず一推しの「これ絶対俺(私)のテーマソング!」と

言うだろう(私は言うよ?)のこれ。




詞の内容は割と虚無的で今の時代を映してるかのようなんだけども、メロディラインの推進力で

ぐいぐい前に進ませてもらっている感じ。

何はともあれ前にいかんきゃならないときに結構助けになっている1曲だ。

2011年2月20日日曜日

まだ見ぬ君を追いかけて

このブログの左側にあるジオターゲティングのブログパーツ。

都道府県別のアクセスの推移を表示してくれるのだけど

ここ最近常に25%を切っている埼玉の方。

��C2のアクセス解析だとダントツに多いIPアドレスがあって照合してみると

どうやらわたしのらしいw

たしかに実際の住所と違うものではあるけども、去年まではちゃんと北海道だったような

気がしたのだけどなあ。でもそれでもあんなにアクセスした覚えもないのでやはり

奇遇にも埼玉ユーザーさんが他にいて見に来てくださっているのかもしれない。

解析は携帯からのアクセスが反映されていないぽいのでそっちの可能性もあるかもだし。

まあ、埼玉問題は解決?したんですが、それでもちょくちょくアクセス解析など見てみると

ちょっと面白い。

大体は歌友さんだったり知り合いだったりするのだけど、Macユーザーさんがお二人

おられるのだけどi-phoneかi-padで来られる方がいたりして「へえ」と思ったり

最近よく顔を出してくださるYahooBBさん達とか(使っている人多いんだねえ)

意外なところで見てくださっている方もいるんだなあと思った。


あと案外コメントを残していくのに勇気がいるという方もいるらしいので

そんな方は左側のメールフォームで書いて送るか、もしくはコメントを管理者にしか

見せない設定にして残していくか(鍵コメですね)いつも来てますでも秘密の話でもw気軽にどうぞ~。


以下ちょっこり閑話休題。見たい方はカーソルでぐーっと反転してどうぞ。


話は変わるんですが、お気にいりに入れてるあるブログを見ているとき

「あ、これ私がこの前書いた記事の題名と同じニュアンスだ~」と

ちょっとうれしいシンクロニシティがあったりしたんですね。

で、ふと我に返ったんですが以前そのブログの記事に感銘を受けまして

コメントを残したことがあるんですね。実際コメント数が表に反映されない仕組みになってて

たぶんじっくり読む事もないだろうけど、励ましのつもりで書き込んだわけです。

一応ここのブログのURLも添えて。

・・・・・・・・・・・。

まさかまさかとは思いますけどね、でも偶然似た発想だったらすごい事かとも思ったり。

本人だったら正にΣ(゚Д゚;エーッ!って感じですが。


聞こえてますか

今日もいい歌会でした。

こちらは一席ではないけれど私が点を入れた戸水忠氏の五行歌である。※谺=こだま


tomizu_20110219222452.jpg



気が付けば足元にとか落ちていたとか、幸せのあり方を歌ったものは多いけど

声、というのは新しい発想かもと思った。

幸せだけじゃなく真理はいつもいつも、人間の深層にささやきかけてくれているのかもしれない。



私にはまだ聞こえてこない。

耳を傾けているつもりなのになあ。

きっと聞き逃しているだけなのかなあ。

たくさんじゃなくてもいいから

たったひとりの声

いつか聞こえるかなあ。

2011年2月19日土曜日

ぼやっと最近Mynetwork

パソコンとの出会いは確か前職の会社(デザイン事務所)にMacが導入されてからのこと。

入社して2~3年目くらいだったか?当時はまだG3が最先端だったんだよw

インテル導入以前だったからがしがしフリーズしていたしねえ。

ちょうど手作業版下、写植とDTPの変わり目の頃だった。

この道十数年の当時の上司はもちろん作業を覚える気もなく、もっぱら若い衆の我々が

覚えていった。

「これ使えたら絶対いい!!楽しいはず!!」と当時イラストレーションの担当だった私も

ウキウキであれこれいじっていた。

その後紆余曲折の十数年を経てPCは暮らしには欠かせない状況になっている。

今うちにいるのはクアッドコア搭載のWindowsマシン1台とMacbook1台。

複合機もそのうち買う予定(汗)


スカイプのアカウントを取ったのは二年くらい前なのだけど、最近はチャットで使っている人の方が多いのねー。

普段は知人とおしゃべりしながらチャット欄にAmazonの商品URLを打って吟味し合ったり

ちょっとしたエクセル資料などファイル送信で添付したり、そして極めつけはグループ会議を使って

遠方の歌友とリアルタイムで歌会が出来るのですよ。これは画期的です。

顔が見えないのは同じとしてもチャット文字のみの行き違いでのトラブルは回避できる部分は

あるのではないかな。これで通話料無料というのは嬉しい限り。


このブログはmixi、ツイッターと連動しているのだけど、もう一つのSNS、Myspaceを

これからどうしようか考え中。軽く放置中ですw

Myspaceにユーザー登録している方おられれば覗いてみてくださいな。

趣味が合いそうであればフレンド登録もどぞ。

http://www.myspace.com/1004881812


人ごみに疲れるのでめったに行けないけど行きたくなったら行くLiveの覚書をあの中にあるブログにして

載せてもいいかなと思っている。一応英文も載せてみたりして(グーグルとエキサイト翻訳の併用だけども)


そしてブログはここと、なんとアメブロにも登録はしてあるw

十数年ぶりにイラストをまた描き始めようかと思いその倉庫として用意だけはしてあるのです。

いつになるかは未定ですが準備が出来たらこちらでもお知らせします。

歌とイメージ違うからかなり驚きますが(笑)

身近な知人や好きなアーティストのみ似顔絵でぽそぽそと描いていく予定です。

リクエストとかはなしで。もう腐るほど要望に応えて仕事にしてたので

ゆっくりと楽しみを取り戻すために描いていくつもりです。

2011年2月18日金曜日

詩は志

歌友の「詩」や「言葉の強さ」についてのつぶやきが心に触れたので、見解といえるほど大層なものでもない

ぼやっとした自分なりの思い(何に対しても大体こんなゆるいスタンス)をちょろっと綴ってみる。



詩、というものの意味を考えるようになったのは、何のこともなく私の名前の一字が「詩」なので

ふと思い立って漢和辞典(三省堂)を開いたのが始まりだった。

意味としては心に感じたことを韻律を含む言葉に表したもの・・・とある。漢字なのでもちろん

詩経、漢詩としてのイメージではある。

中国最古の詩集として名高い「詩経」(選者は孔子なんだそうです)の大序に書かれている文がこれ。



詩者,志之所之也。在心為志,發言為詩。
詩は志のゆく所なり。心に在るを詩と為し、言に発するを詩と為す。



この場合の志とは「心が動き向かう」という意味ではあるけれども

非常にシンプルにわたしの胸に落ちてきて自分の名前が好きになった一文だった。

文明開化と共に西洋からやってきた詩の概念ともともと日本にあった文語調や五七調との

葛藤の歴史もあってか、「詩」というものを考える時難解にならざるを得ないというか

そういう小難しい姿勢でないと受け入れられない部分があるのか。

個人的には「こうでならねばならない」「後世まで残るような言葉を」という括るほど

詩を書くことのそれぞれの自由な意義から遠ざかっていくように思える。




自分にとっての心を打つ言葉や文章は、ちょろっとネットやwikiで探せばいくらでも出てくる。

それに感動や感銘して糧に出来るかはその人の感受性であるけど、自分の内から何かを生み出す時に

本当にきっかけとなる感動はどこから探せるだろう?

メディアから与えられる多様な感動は、時にはそれで満足させられてしまう部分がある。

一般に博学や勉強ができるというのは知識量の積み重ねに過ぎない、といつだかの歌会でそんな話が出たが

ものを知っているからといってその人自身の「豊かさ」に繋がるかといえばまた違う。

一分一秒でも息をして、働いて、食べて、汗をかいて、生きてゆく時間から気づけることを

ひとつでも出し惜しみせず形にした方が、遥かに書き手としての血肉になる気がする。

とりあえず自分の志はこんな方向を向いている。

表現という裾野のさらに末端にいる自分でも、心がそちらに向いてる限りは

消費者ではなく供給者でありたいと思うのである。

2011年2月17日木曜日

ちからうた、おんなうた

指圧に甘手と苦手というのがある。

親指がほぼ90度に反り指の腹でやわらかタッチで指圧できるのが甘手という。

苦手はその逆でほとんど反らず指先でぐぐっと鋭く効きそうな圧をかけられるのだそうだ。

どちらがどうというより、指圧される側の好みによって需要があるという話。



手弱女(たおやめ)のやわらかな質感を感じさせたり、がちがちの骨格や筋肉を思わせたり

言葉もやはりそれぞれ。

どういうわけかどう頑張っても(いや、頑張るというものでもないだろw)

自分の歌は、ムキムキというかがっちりというか、例えるなら女子ソフトボール選手のような

それが味と言えばどうなのかとも思うけども、自分の中で欠けている柔らかさをどうやって

ものにしようかと何気に思っている身としてはなんともかんともだ。

言わば鏡のようなものなので、その部分が越えられない箇所なのかなあと思案したり。



何事も歌になる。

けれど歌になるからといって全てが救われるわけじゃない。

万能じゃないからこそおんなの肉体を持つ言葉をどこかで羨んでしまうのだろうし

それを振り切ってがしがしと書き続けられるのだろう。

ちなみに我が手は甘手。どの指もほぼ90度反る。

歌にはまったく反映されていないのだった。ちぇっ。

なんか僻みっぽい締めだな(笑)

堪える背中に贈る言葉

どなたかの書いた五行歌にもあったような、誰だかが言っていたような気もするけど


いつか高く飛ぶ為に、今はぐぐっと低く屈む時なら


マイナーチェンジして得ることの出来る何かを潔く選んだなら


迷わず往けよ。


そこで振り返らないのがかっこいいんだぜ。


男も女も(特に男は)。

2011年2月13日日曜日

Happy Birthday Oh yeah!

ふと、何気なくできた歌。

昔書いた自作の返歌のようになった。

行間もなんか固い。信も愛ももっと別の言葉に置き換えられそうだけど

基本自分が求めているのは至極シンプルでベタなのだ。

そして出来るならこういう形で求めたいし求められたいのだと。





birthday.jpg


今日ある人の誕生日なんである。詳細は語らないけど。

生きることそのものが絶望とセットでもあるなら(死んだら絶望も希望もくそもないという意味)

「きみ」の人生をこれからも肯定する、という意味合いで。

しかし可愛らしくない歌だ・・。なのでせめて文字色だけピンクにしてみた(笑)



Happy Birthday Oh yeah!

また今年1年、奔って生きようぜ。生きるんだぜ。

2011年2月7日月曜日

ぬくもりは寂

ありのままの自分を受け止めてくれる場所が自然とか愛らしい雑貨とか

あたたかい紅茶とかばかりなら、突き詰めればやはりそれは寂しい。

人は血の通った寂しさを与えてくれる。

それでも救ってくれたのは、そこから生まれたものばかり。


何かを伝え表現するのも結局は人との触れ合い、関わり方なのだなと

風呂上がりのなだらかな、己の寂しさを撫でながら思った。

2011年2月5日土曜日

No title

五行目に「紅葉」と置く歌が多かったような。

構成上必然で置いたのか置かざるを得なかったのか置いたら「なんか決まる!かも」と置いたのか

きっとそれぞれ。感想なので追及はしない。

たぶん究極はこの言葉を一切排して「紅葉」の様を読む側にイマジネーションさせる事なのかも。

「愛してる」「孤独」「平和」などなどと同じように。

三隅さんと水源純ちゃんの巻頭は共に母と子を歌ったもの。


新年歌会などの催しが多かったので写真口絵も賑やかな様子がうかがえる。

ここ最近和装の方も増えてきて嬉しい。ということで歌より今回は着物メインで。


神島さん訪問着。若々しい着こなしに驚愕です。

悠木さん、別の歌会の際は藍の大島、関東合同では柔らかものをお召です。鳥の子色のような淡い色

ぽんぽんと小さな飛び柄が淡雪のようです。帯のチョイスが渋いのが意外でした。

こういう大きなものや記念歌会となると小紋、訪問着系が多いなあ。

井椎さん着物も可愛い。背筋を伸ばすとき両肩の肩甲骨を「くっつけ合う」ように

意識してみると自然と肩が落ちるよー。歌舞伎の女形さんの技です。

あと座る際、「着物の両袖の先を両手でくいっとつまみ(奴さんポーズ)」

「つまんだ両手を内側にくるりと回し」「そのまま膝に置く」と

体に沿うように映ります。真正面ではなくやや斜めのアングルで撮ってもらえば完璧。

着物を着るには体型が合わなくて・・・とお悩みの方もご参考に。

2011年2月3日木曜日

スポンジかストローか

吸収力の話ですけどね(笑)

これは!と思ったものに対して瞬時に動ける人の方が

物事においての順応力というか吸収が早い気がする。

それを通して自分を広げたい、違う世界に触れたい、刺激を受けたい。

歌を始める方でも「へーなんだか面白そう~」ととりあえず書いてみるくらいの人の方が

面白いものを生み出したりする。

普段はストロー派な私もたまに心に触れるようなイベントを知ったりすると、

速攻主催者にコンタクトを取ったりいきなり飛び込んでみたり案外平気。

で、滅多にしないそういう行動を通して知り合えた様々な物、人に対しては

まず外れた例はないので、そんな時は躊躇なく本能のままに動いてみたりする。




何でも吸収したいと思いつつ、いつも使っているストローは

自分にとって都合のいいもの心地よいものしか貪っていないか?

贅肉と物を増やしてばかりではないか?

2011年2月2日水曜日

No title

というより使うタイミングの問題な気がする。

口に出すか出さないか、人に聞かせるかどうか。

「それが自分だから」とか。

そういうのは言葉の形にする以前に己の生き様で示すものじゃないのか?

あと、本来の意味を形骸化させるというか、本来奥深い意義があるはずなのに

言葉にするととても薄いものに感じさせてしまう。そして呪縛感。

簡単に「正義」とか壇上に挙げられると泣きそうになる。

英訳のJusticeはどこまでも風通しが良いのに。漢字というものの形質的に仕方ないのだろうけど。

西洋の正義論とはまた違う日本ならではの閉塞感がたぶん個人的に嫌なのだと思う。