2011年6月29日水曜日

ヒロイモノの実感

ただ願い、ただ祈る。

それは手を尽くせるだけ尽くしての最後の手段、人知の及ばぬ領域にのみ

向けられる眼差しでしかない気もする。



感じ方にもよるだろうか。

先が見えないという人もいる。

信じていたものが次々と壊れていったという人もいる。




それでも



来るな!といっても容赦なく明日は来る。


安穏とした日々に見過ごしていた大切なものを


肌身離さずタフな今日を生きていくだけ。



転んでもただでは起きないというのは



痛い経験で学習するとかの意味ではあるけれども



どうせ転んだのなら



小銭や何か拾えるものでもあればはいずり回って



拾っとけ!ということだなと自分的に解釈している。



そしてそれは、ある意味誰の手も借りず



自分の手で確実に大事ななにかを掴めるということと思う。



そんなどさくさも生きていく自信のひとつな気がする。

2011年6月26日日曜日

自分の歌の「芯」だと思っていたものは、借りもののイデオロギーではないのか?

という問いと自戒でもって足元を見つめる。

その時代でしか生まれないものもあるけれど、大概そういうものはいとも簡単に

人の中の情と、普段生産的ではない生業に没頭していた方々(音楽系、文系、理想が天よりも高い、

机上のエコや平和論が好きな人、大正時代における高等遊民のような方々)の

有事での我が身の無力感を刺激し「ちいさな声だけどあげることに意義があるはず(`・ω・´)」

という感情に付け込んでくる。(間違っちゃいないけれど明らかに最近は暴走しているよねぇ)


己しか出来ないことや持ち得ない感性や求心力、実直に日々を確かに暮らすことに目を背けて。

軸のぶれていく人を見続けるかなしさ。

これもまた淘汰なのかなと思えばそうなのだろうけれども。



畑というものは人間と同じで耕し続けなければ使い物にならなくなるのだという。

耕し、植えても食べてもらえる保証はないかもしれない土地で、それでも真摯に土と向き合う姿を思う時

やはり自分のしていることは小さいなと思う。それでも

恥じ入ることがその人たちを忘れぬ一鍬として何の足しにもならぬ歌を作り続けていくしかない。

これが流されずに外から気を掛け続け、遠回しに手助け出来うる最良で賢明な方法と信じて。

2011年6月23日木曜日

廻り始める



再結成の時のですね。十数年の時を経ても変わらないクォリティとそれ以上に

年季の野太さが加わった感。






全ての人が真摯に打ち込んでいる生き甲斐があるわけじゃないし

あったとしても突然消えてしまうことだってある。


支えもなく、その分知恵と工夫でカバー出来ても

それでも生きていくことはこわいことだ。




YOUTUBEでのこの動画へのコメントに書かれているように

また違うようで変わらぬ輝きを見せてくれることで

年を取ることがすこし怖くなくなった。

その場にいた長年のファンの人たち(同世代が多そうだったw)の時間もきっとそう



一度止まって再び廻りはじめるという事の意味を深々と考える。




2011年6月20日月曜日

旅は続くどこまでも

街から街へバスに乗っての演奏旅行、LIVEに挑む前の空気や胸の高鳴り

バックステージの生のわくわくが伝わってくる。




普段一人なのでどうとも思わないけれど、たまーに無性に安心感にとらわれてくる時がある。

根拠のない暖かい感覚。


そういう時はきっと何かの周波数が、上手い具合に私にチャンネルが合わさったのだと

前向き?に解釈している。


どこかの、誰かの、優しい呼吸が

「あ、なんか今つながったっぽい」と感じさせてくれる。

そんな日曜の夜。

2011年6月19日日曜日

産みの源

歌友のフランス旅行記をブログで拝読するにつけいいなあと思う最近(実はフランス好き)。



好きなシャンソン。この歌といえばシャルル・トレネが有名ですね。



ステージ捌きというか中尾ミエ他の世代を激しく思い出した。歌は上手いです。

女性名詞のLa Mer(海)はこれまたフランス語のMere(母)が語源とのこと。(綴りは違えど読みは同じ)

聖母マリアの「Maria」も元をたどれば海の滴を意味するヘブライ語から来ていて

そこから「Marina」(港)(水夫)という言葉も派生していった。

万物を生み育むという共通の深層意識というのがあるのだろうか。

でも言語学も多大な言葉数の比較データがものを言う部分があるらしいので(科学っぽいですね)

一概には言えないだろうけれども。日本語のいくつかの言葉の大元だって

歴史を重ねて違う意味に変換されていったり派生していったりしているのだし。


日本語の「海」と「産み」との関連性はあまり有力な説とは言われていないようです。

「う」は「大」の意味の転、「み」は「水」の意味で、

「大水(うみ・おほみ)」を語源 とする説が有力とされる。
web語源由来辞典より

滋賀県の近江は淡水の海(今の琵琶湖ですね)、すなわち淡海(あわうみ)という言葉が縮まったものであるとされている。

それと上記のような意味合いも含まれているのだろうか。

それでも古事記の国産みの記述などはとても象徴的ではあるけれども。

何だかフランスからずいぶん飛躍してしまった。伊邪那岐の天沼矛(あめのぬぼこ)で

私の思考の海もぐるぐるとかき混ぜられている気分。

��よさげなものも浮かぶ一方へんてこな発想も生まれてくるあたりはまんま神話通りだったりする。)

往く背を見送るという事

今日は歌会。体調が芳しくない方の休みもあっても、久々に顔を見せてくださった方も来て

それなりに楽しい歌会でした。が、病気療養に入るというメンバーの方からのお便りを見せていただき

つくづくこれからの歌会の事など憂ったりした。



��0代後半から80代までの方がいる。

歌会が出来てから14年経ち、その間2名のメンバーが逝去され

創立時からいる方も健康に不安を抱えたり、人生の切り替わり時期とされたのか

足が遠のいている方もいたりする。

代表になった時から漠然とは思っていたけれど、一番年若な自分がこれから幾人もの方々の背中を

見送ることが増えてくる可能性を思うと改めて寂しい。






歌会と過ごした日々は、ある意味人生の一番ハードでタフな時期と重なる分

目に見えない幾重にも重なられた「何か」が徐々に剥がされていくような感覚を覚えた

今回の出来事だった。

歌会あっての生きること!とはあまりにも大袈裟すぎるけれど、少なくとも当時は

歌会があったおかげで死なずに済んだのはほんとう。



去ろうとする後ろ姿に、わたしのこれからの筋道を重ねて見据えろという事なのだろうか。







(´・ω・`)・・・・・・








(´・ω・`)あ、前記事の鼻毛の歌、同点ですが1席でした。←ちょっと?良い話題?

2011年6月16日木曜日

日々の残り物を題材に

まったくの虚構を積み上げて歌を造型的に作り上げる方もいれば

身近な愛しいもの(子供や家族、育てている草木などなど)を大事にスケッチするように

描きとめていく方もいたり、歌の題材は人それぞれ。


等身大の営みと歌の在り様が近くあればいいといつも思っているので

やはりそれに直結した題材を象徴的によく使ったりする。

ざっと今までのを思い出せるだけ箇条書きにしてみると・・


洗濯物 ブラジャー 歯ブラシ 嘔吐 水垢 

排水溝 乳房 トイレ 下着 トースト 湿布

サラミ 半裸 ビール 扇風機 カレー鍋 コンビニ袋 

あんぱん ロト6 督促状 カップヌードル

偏平足 イカの腸



しかし生活感あふれるラインナップw

手が届く範囲で実感できるものを選んでいくと自然こうなった感じ。

理由は後付けじゃないけれど、「五行歌だから」と一行ごとの独立性にこだわって

最初のうちは「題材ありき」で考えすぎてしまうというのもある気がする。




きれいなものをきれいなまま写生するというのも素敵な方法ではあるけれど

絵や写真(はたまた短歌や俳句)では出来ないやり方で五行歌そのものの可能性を

もっと開拓したら楽しいのではと思ってもいる。


ちなみに今週土曜、こちらで歌会があるのだけど今回提出した自作の題材が

鼻毛

題材倒れになる可能性大ですが使えただけで満足しておりますw

瞬間瞬間に生まれがちな「こうあるべき」的なものをささやかに時にはがっつり切り崩す。

自作に関してはそういう意識はし続けたい。

別の側面から見た「一首独立」という意味はこういうことも含まれているのかなとも思ったりした。

��違ったらすいませんですが)

2011年6月11日土曜日

想いの自画像

歌そのものもそうだけども、こういう個人的な独白に近いブログとかに書く文章も含め、

自身のパーソナリティをなぞるというか私の体温が伝わるようなものでありたいというのが理想だ。


言葉を駆使してある世界を表現するというより、書くこと自体が私にとっては

普段思っていることを彫り起こす彫刻刀であり

日常を書き留めるボールペンであり、何よりも

人生の分岐点として我が身を振り返るが如く自画像をデッサンする木炭でもある。

未だ上手く描けたためしがないけれど、案外それを楽しんでいる感もある。




寸分違わず想いを表現できるなんて一生かかっても出来ないんじゃないかと思っている。

でも、それはそれとして「描き続けて」徐々に見えてくるもののリアル感に安心したくて描いている。

勿論その時々の光と影の射し方を忠実に再現しつつ。

歌という形にして楽しい時もあれば悲しくなってしまった時もあるけれど



どれも自画像。紛う事なき自分自身。



受け止め続けていくことに意味があるのだと思う。

2011年6月8日水曜日

排泄の作法

食事中の方は回れ右、もしくは下のなごみ動画など見てなごんでください。



詩やあらゆる表現=排泄という論は私も頷けるところが多々ある。
赤裸々というかフィクションの歌が少ないというのもあるけれど、一時期本当にリアルで行き詰っていて
もう本当に想いのあれやこれやを吐き出さねば心身共にどうにかなってしまうという感じではあった。
なので歌自体の思い切りの良さを驚かれるのも妙に面はゆい気持ちでもある。
そういう意味ではその頃は自作の歌が表現物という意識は薄かった気がする(今もそんなにない)。
言わば自分の排泄したものをありのまま提示して「これは見事なものですね」とよそ様から
何故だか褒められる?居心地の悪さ。
ただ、マーキングのように自身の在処をそこに示すがごとく歌を書くことを自分の居場所としていた感もある。
固いものを無理やりふんばって出す。
出すだけでいいものをそれをわしづかんで周りにぶちまけたい衝動を
抑えきれなかったことも多々あった。
そういう歌は今見るに堪えないものばかりだ。けれどその頃はそうするしかなかった。
あれから状況は変わって多少なりとも平穏になり、汚物を掴むような叫びもなくなったけれど
固いものもさほど固くなくなり一定の配分で出せるようにはなった。
けれど、表出・表現の根底の意味という点では、おりこうさん過ぎるかなと思ったりする。
そしてそう思えるあたり、まだまだぶちまけたい衝動はあるのかなとも思う。
排泄、ただそこに致すという自己完結。余韻と香りを醸し出し、己の内から出すことで
心身を健やかに日常の根底を豊かにせしめるもの。
やっぱりおんなじだ。呼吸も排泄も歌も生きることも。

2011年6月6日月曜日

よしなしごと

五行歌や深い思索など何も考えずに、家事も放り投げてただ無為に過ごす。


この無為さがやはりもの想う土台でもある。


ぴかぴかにあちこち磨いたり整頓することが必ずしも「快適なくらし」であるという事はないと思う。


書棚にきちんと並んでいる本の内のさかさまになっている1、2冊が、まさに自分にとっての


くらしのリアリズムだし、それの写生を通して見えるものを歌にしたい。



��よしなし動画 ドビュッシー 「子供の領分」よりゴリヴォーグのケークウォーク)


ドビュッシーの曲の中で何かコミカルで不思議な雰囲気だなあと思っていたのだけど

本人の演奏をこうして聞いてみると現代聴いているものとテンポが全然違うんだ!と再発見。

大人が子供に絵本を読み聞かせているような優しい雰囲気が伝わってくる。

2011年6月5日日曜日

画面の向こう側の葛藤

野崎さんの巻頭歌。


先月の被災された方の特集は今月も続いているけれど、あえて外域から見た目線を。

当たり前であるけれどテレビや外へ訴えかけるメディアは、美しい話はどこまでも美談に

悲しい出来事はとことん悲劇に、真意はどうであれ輪郭をくっきりと際立てて見る側を前に熱演する。

実際当事者でなくともその場にいて体験しているが如く感情移入をさせる演出。

良くも悪くもそのフィルターは歌を作りやすい。

わたしたちはどう頑張ってもその痛みは肩代わりは出来ない。

それは共感とは別の現実だ。


画面では伝わらない画面でしか伺うことが出来ないという傍観の自覚と、それに対するジレンマ。

それを越えて得たものを時間をかけて歌から感じさせていただきたいなと思う方々の多い

今回の歌誌だった。



主宰のピストルの歌。


実際若い頃の主宰がどうだったのかは存じ得ないが、なんとなくこういう感じの匂いなのかなと思った。

ノレナイ人種

音楽は聴くけども、実はLIVEに行ったのは数えるしかないというのを

ずっと前のブログ記事で言ったことがあるような気がする。

理由としては

1)人混みに酔う

2)出不精(お金もそんなにない)

3)周囲に合わせて手拍子や音に乗ったりに違和感を感じてしまう。

というところ。

よって聴きに行く回数とジャンルがすごく限られてくる(クラシックとかjazzとか)。

3)に関しては我ながらとっても人生損してる感もあるけれども、何だろう、どうしても

どこか冷静になってしまうというか、それはその場の雰囲気だとしても強制的に乗せられるのじゃなく

自分のペースで音を楽しみたいのだ。ほんとに音楽好きなのか?と疑われそうだけどホントなんだよ(´・ω・`)

��)2)の理由を乗り越えて行くという事は本当にそのアーティストの音を聴きたいのであって

それならばせめて肉体にも心にも負担のない形で楽しみたいじゃないか。(言い訳がましい?w)

だから主にCDやYOUTUBEなどで聴くおうちLIVEで専ら楽しんでいる。


あと、どんなに好きでもファンクラブの類に入ったことがない。入る必要性があまり感じないからだ。

あくまで音楽性に惹かれているのであってアーティスト本人に「キャー」とかはまずないし

実際聴ければいい派なのでLIVEでファンクラブの優先席とかではなく、むしろマイペースで聴ける

後ろの席で十分なんである。

そして同じアーティストの好きな他の人と、LIVEへ連れ立ってという事もほとんどない。

そういうのを通してファン同士のつながりで仲良くなったりというのは素敵な事だしいいと思う。

けれどファンとして入り込んで妙に事情通になってしまう馴れ合いもよく見る。

それならば事情まで深入りはせず、いつも新鮮な気分でその時その時の音を楽しんでいた方が

人間関係も含めこざっぱりとしていいなあとも思うのである。




こんなわがままな観客であるけれどもw初夏から夏はなにげに行きたいLiveが目白押しなので

ちょっとがんばりたい。

目玉は8月にあるサッポロシティジャズと宮川彬良コンサート(札響とだそうですよ)

kitaraホールだったら着物で行きたいくらいだけど、お子様連れがきっと多いのでうーんと考えている。

TPOだけは兼ね合いを慮ってしまう小心さなのである。

2011年6月2日木曜日

昔憧れた大人のドレス

たしか中学生の頃だったはず、今はもう手元にはないけどジャケ買いで

買った大貫妙子アルバム「カイエ」独特の空気感と静けさに

太刀打ちできない大人の世界を感じた。



これはフランス語で歌われていたもので、ついさっき初めて日本語版を聴いて

しみじみいいなあと思った。

下の方が日本語版。



ようやく年齢がこの曲をしみじみ味わえるまでに追いつけたのが感慨深い。

日本語版でじっくり聴いた後、フランス語バージョンを聴いてみるとまた違う味わい。




これは知っている人は多いかも。




時の移り変わりを想う。

浅はかながらもその時その時を豊かに生きたつもりだけれども

いつか大きくなったら得られると願っていたものの殆どを、つかみ損ねている今。

まだ手に収められる余白なのだと言い聞かせつつ

次の季節をいつも待ちわびている。



今日から六月。




普段通りの一歩をまた踏み出し重ねていく。